せいし》をやったり、桑苗販売《そうびょうはんばい》などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛《ほう》り出して、柄《え》の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌《いや》になり、疳癪《かんしゃく》を起してやめてしまうが例であった。
父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹《しんじゅ》などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗《さとうきび》など標本的に試作《しさく》した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時|菓樹《かじゅ》は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効《こう》があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木《わかき》の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵《たてきず》をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻《まわ》り、甘蔗と間違えて西洋|箒黍《ほうききび》を噛《か》んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃《そっ》と拳固で打破って川に投げ込んで素知《そし》らぬ顔して居たり、悪戯《いたずら》ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕|稽古《げいこ》もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌《てのひら》の拇指《おやゆび》の根にざっくり切り込んだ其|疵痕《きずあと》は、彼が養蚕家としての試みの記念《きねん》として今も三日月形に残って居る。
斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。
三
青山高樹町の家《うち》をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有《とあ》る饂飩屋《うどんや》に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知《きゅうち》の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷|宿《しゅく》のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊《じぞうそん》の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早《もう》千歳村《ちとせむら》であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難《なや》む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸《ようや》く小さな流れに出た。流れに沿《そ》うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒《しょうしゃ》とした草葺《くさぶき》の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処《ここ》は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
会堂《かいどう》がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家《うち》に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方《どちら》と云うたら、かみさんはふッと噴《ふ》き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴《みはら》しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦《おんな》が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺《ぶき》の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵《どぞう》など見えた。暫《しばら》くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山《いしやま》八百蔵《やおぞう》と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分|禿《は》げかゝり、猩々《しょうじょう》の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識《ものしり》口利《くちきき》で、今も村会議員をして居るが、政争の劇《はげ》しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜《くぐ》って来た男であった。推参《すいさん》の客は自ら名のり、牧師の紹介《しょうかい》で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白《かすり》の筒袖羽織、禿《ち》びた薩摩下駄《さつまげた》、鬚髯《ひげ》もじゃ/\の彼が風采《ふうさい》
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