と、煤竹《すすたけ》色の被布を着て痛そうに靴《くつ》を穿《は》いて居る白粉気も何もない女の容子《ようす》を、胡散《うさん》くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐《じゅっかい》を聞いて、やゝ小首を傾《かし》げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰《もら》い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚《おうよう》な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井《てんじょう》の低い鮓詰《すしづめ》にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋《へや》があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距《さ》る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
 会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
 晩秋の日は甲州《こうしゅう》の山に傾き、膚寒い武蔵野《むさしの》の夕風がさ/\尾花を揺《ゆ》する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処《どこ》やらで夕鴉《ゆうがらす》が唖々と鳴き出した。我儕《われら》の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
 甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有《とあ》る店で、妻は草履《ぞうり》を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。
[#改ページ]

     都落ち

       一

 二月ばかり経《た》った。
 明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼《かれ》が僑居《きょうきょ》に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘《しょうへい》されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
 彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川《たまがわ》は一里の余もあると云う。風景も平凡《へいぼん》である。使って居た女中《じょちゅう》は、江州《ごうしゅう》彦根在の者で、其|郷里地方《きょうりちほう》には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》の様に廉《やす》い地面家作の売物《うりもの》があると云う。江州――琵琶湖東《びわことう》の地、山美しく水清く、松茸が沢山《たくさん》に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会《しょうかい》してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込《ひきこ》む者があろうか、戯談《じょうだん》に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇《むやみ》と乗地《のりじ》になって、幸《さいわ》い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
 一は上祖師ヶ谷で青山《あおやま》街道《かいどう》に近く、一は品川へ行く灌漑《かんがい》用水の流れに傍《そ》うて居た。此等《これら》は彼が懐《ふところ》よりも些《ちと》反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所《じしょ》で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫《しらかし》の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑《むぎばたけ》になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林《くぬぎばやし》になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字《となりあざ》の大工の有であった。其大工の妾《めかけ》とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
 石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
 手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障《ばんしょう》一排《いっぱい》して二月二十七日を都落《みやこおち》の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒《くさぼうき》と雑巾《ぞうきん》とバケツを持って、東京から掃除《そうじ》に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀《ひばり》の歌が纔《わずか》に一同の心を慰めた。
 来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住《せんじゅう》の人々はまだ仕舞《しま》いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士《そうし》をしたと云う家主《やぬし》の大工とも挨拶《あいさつ》を交換した。其妾と云う髪《かみ》を乱《みだ》した女
前へ 次へ
全171ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング