ょうじん》、云わば昔の我に対する三年の喪《も》をやったようなものだ。以前はダシにも昆布《こんぶ》を使った。今は魚鳥獣肉何でも食《く》う。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒《くんしゅ》(酒はおまけ)山門《さんもん》に入るを許したばかりで、平素の食料《しょくりょう》は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食《にくじき》はせぬから、折角の還俗《げんぞく》も頗る甲斐《かい》がない訳である。甲州街道に肴屋《さかなや》はあるが、無論塩物干物ばかりで、都会《とかい》に溢るゝ※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》、秋刀魚《さんま》の廻《まわ》って来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人|威勢《いせい》よく盤台を担《かつ》いで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節《なまりぶし》が五六本に鮪《まぐろ》の切身が少々、それから此はと驚かされたのは血《ち》だらけの鯊《さめ》の頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋《かまぼこや》からでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。煮《に》て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷《きんごう》近在《きんざい》の衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪《ゆき》の様《よう》な米の飯《めし》で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処では魚《さかな》と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖《さば》や鮪に酔《よ》うたのである。此頃は、儂の健啖《けんたん》も大に減った。而して平素菜食の結果、稀《まれ》に東京で西洋料理なぞ食っても、甘《うま》いには甘いが、思う半分も喰《く》えぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式《もくべえしき》になった。
五
書《ほん》が沢山《たくさん》ある家《うち》、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村《ちとせむら》を風靡する心算《つもり》であったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷《こきょう》は此処《ここ》では無い、大きな樹木《じゅもく》を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数《こにんず》には広過ぎる家《うち》を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切《いっさい》永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕《てんと》であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否《いな》むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着《しゅうちゃく》がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間|孜々《しし》として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要《よう》あって来訪した東京の一|紳士《しんし》は、あまり見すぼらしい家の容子《ようす》に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争《あらそ》われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井《くるまい》の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄《よ》っても往《い》かなくなった。即|儂《わし》の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
堕落か成功か、其様《そん》な屑々《けち》な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌《いや》ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会《とかい》を捨《す》てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居《すまい》は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐《かい》東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場《たちば》と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂《と》げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生《う》み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居《いなかずまい》の後、いさゝか獲《え》たものは、土に対する執着の意味をやゝ解《かい》しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾《わ》が樹木《じゅもく》を植え、吾が種を蒔《ま》き、我が家を建て、吾が汗を滴《た》らし、吾《わが》不浄《ふじょう》を培《つちか》い、而
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