凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将《とうごうたいしょう》の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇《めいじてんのう》崩御《ほうぎょ》の際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込《うちこ》むべく大骨折った。天皇陛下を知らぬ程《ほど》だから、無論|皇后陛下《こうごうへいか》や皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点《がてん》が行くと、曰《いわ》くだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸《さぞ》困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都《ていと》を離《はな》るゝ唯三里、加之《しかも》二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏《かつてんし》無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女の外《ほか》に、テリアル種の小さな黒《くろ》牝犬《めいぬ》が一匹。名をピンと云う。鶴子より一月《ひとつき》前《まえ》にもらって、最早《もう》五歳《いつつ》、顎《あご》のあたりの毛が白くなって、大分《だいぶ》お婆《ばあ》さんになった。毎年二度三疋四疋|宛《ずつ》子を生む。ピンの子孫《しそん》が近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度|跟《つ》いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨《ほね》らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァ種《しゅ》の牡犬《おいぬ》が居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味《いみ》したのでは無い。獰猛《どうもう》な相貌をした虎毛《とらげ》の犬で、三四疋位の聯合軍《れんごうぐん》は造作もなく噛《か》み伏せる猛犬《もうけん》だったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入|聟《むこ》となった訳《わけ》である。儂も久しく考《かんが》えた末、届と税を出し、天下《てんか》晴《は》れて彼を郎等《ろうどう》にした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤も悪《わる》い癖《くせ》があって、今でも時々子供を追《おい》かける。噛みはせぬが、威嚇《いかく》する。彼が流浪《るろう》時代に子供に苛《いじ》められた復讎心《ふくしゅうしん》が消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛《かあい》がらぬのであろう。直ぐ畜生《ちきしょう》と云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格《しかく》が無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人《ちょうせんじん》台湾人《たいわんじん》をいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬《やけん》の牙は飼犬《かいいぬ》のそれより長くて鋭く、且|外方《そっぽう》へ向《む》くものだそうだ。生物《せいぶつ》には飢《うえ》程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士《のぶし》のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱《よわ》くなったのも※[#「しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫《おねこ》が居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳《たたみ》の上より土に寝《ね》るが好きで、儂等が出あるくと兎《うさぎ》の如《ごと》くピョン/\はねて跟《つ》いて来る。米の飯《めし》より麦《むぎ》の飯、魚《さかな》よりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜《まくわ》の喰い残りをがり/\噛《かじ》ったり、焼いた玉蜀黍《とうもろこし》を片手で押えてわんぐり噛《か》みつきあの鋭い牙で粒を食《く》いかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園《でんえん》の猫である。来客があって、珍《めず》らしく東京から魚を買ったら、トラ先生|早速《さっそく》口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎《よだれ》をたらし、人|騒《さわ》がせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度|飼《か》って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井《てんじょう》の鼠、物置の青大将《あおだいしょう》、其他無断同居のものも多いが、此等《これら》は眷族《けんぞく》の外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車に轢《ひ》かれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
猫の話で思い出したが、儂《わし》は明治四十二年の春、塩釜《しおがま》の宿で牡蠣《かき》を食った時から菜食《さいしょく》を廃《よ》した。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進《し
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