、鼠色《ねずみいろ》も純黒《まっくろ》に勢《いきおい》なる様なもので、故先生があまりに物的《ぶってき》自我《じが》を捨てようとせられた為、其反動の余勢であなたは実際以上に自己を主張されねばならぬ様なハメになられたこともありましょう。それでなくても、婦人は自然に物質的になる可き約束の下《もと》にあるのです。先生が産《さん》を治《おさ》むる事をやめられてから、一家の主人役に立たれたあなたが、児孫《じそん》の為に利益を計り権利を主張し、切々《せっせ》と生活の資を積む可く努められたのも、致方はないと云った様な御気の毒なわけで、あなたの方から云えば先生にこそ不平あれ、先生から不足を云われる事はない筈です。と、誰も然《そう》申しましょう。然し夫人、生計を立つると云うも、程度の問題です。あなたが家の為を思わるゝあまり、ノーベル賞金を辞された先生に不満を懐《いだ》かれたり、何万ルーブルの為に先生の声を蓄音器に入れさせようとしたり、其外種々|仁人《じんじん》としても詩人としても心の富、霊の自由、人格の尊厳《そんげん》を第一位に置く霊活不覊《れいかつふき》なる先生の心を傷《いた》むるのは知れ切った事まで先生に強《しい》られたのは、あまりと云えば無惨《むざん》ではありますまいか。あなたはトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の名を其様《そんな》に軽いやすっぽいものに思ってお出なのでしょう乎。「吾未だ義人《ぎじん》の裔《すえ》の物乞いあるくを見し事なし」とソロモン[#「ソロモン」に傍線]は申しました。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]の妻は其《その》夫《おっと》をルーブルにして置かねばならぬ程貧しい者でしょう乎。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]の子女は、其父を食わねば生きられぬ程《ほど》腑甲斐《ふがい》ないものでしょう乎。私にはあなたがハズミに乗って機械的に為《せ》られたと思う外、ドウもあなたのお心持が分かりません。全く正気の沙汰とは思われかねるのです。莫斯科《モスクワ》の小店なぞに切々《せっせ》と売溜《うりだめ》の金勘定ばかりして居るかみさんのマシューリナ、カテーリナならいざ知らず、世界のトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の夫人の挙動《ふるまい》としては、よく云えばあまりに謙遜《けんそん》な、正《まさ》しく云えばあまりに信仰がない鄙《さもし》い話ではありますまい乎。私は先生の心中が思われて、つらくてなりません。昔先生が命をかけて惚《ほ》れられた美しい素直なソフィ[#「ソフィ」に傍線]嬢は、斯様《こん》な心の香《か》の褪《うつろ》った老伯爵夫人になってしまわれたのでしょう乎。其れから先生|逝去《せいきょ》後の御家の挙動《ふるまい》は如何です? 私はしば/\叫びました、先生も先生だ、何故《なぜ》先生は彼様な烈しい最後《さいご》の手段を取らずに、犠牲となって穏《おだやか》に家庭に死ぬることが出来なかっただろう乎、あまりに我強《がづよ》い先生であると。然し此は先生がトルストイ[#「トルストイ」に傍線]である事を忘れたからの叫びです。誰にでも其人|相応《そうおう》の生き様《よう》があり、また其人相応の死に様があります。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]の様な人でトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の様な境遇にある者は、彼様な断末魔《だんまつま》が当然で且自然であります。少しも無理は無い。余人にあっては兎も角も、先生にあっては彼様《ああ》でなくては生の結末がつかぬのです。一切の人慾《じんよく》、一切の理想が恐ろしい火の如く衷《うち》に燃えて闘《たたこ》うた先生には、灰色《はいいろ》にぼかした生や死は問題の外なのです。あなたに対する真《しん》の愛から云うても、理想に対する操節《そうせつ》から云っても、出奔《しゅっぽん》と浪死《ろうし》は必然の結果です。仮に先生が其趣味主張を一切胸に畳《たた》んで、所謂家庭の和楽《わらく》の犠牲となって一個の好々翁《こうこうおう》として穏にヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]に瞑目《めいもく》されたとして、先生は果してトルストイ[#「トルストイ」に傍線]たり得たでしょう乎。其死が夫人《おくさん》、あなたをはじめとして全世界に彼様《あん》な警策《けいさく》を与えることが出来たでしょう乎。彼《あの》最後《さいご》彼|臨終《りんじゅう》あるが為に、先生等身の著作、多年の言説に画竜《がりゅう》の睛《せい》を点《てん》じたのではありますまい乎。確に然です。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]は手軽に理想を実行してのける実行家では無い、然しトルストイ[#「トルストイ」に傍線]は理想を賞翫《しょうがん》して生涯を終《おわ》る理想家で無い、トルストイ[#「トルストイ」に傍線]は一切の執着《しゅうちゃく》煩悩《ぼんのう》
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