を軽々に滑《すべ》り脱《ぬ》ける木石人で無い、然しトルストイ[#「トルストイ」に傍線]は最後の一息を以ても其理想を実現すべく奔騰《ほんとう》する火の如き霊であると云う事が、墨黒《すみぐろ》の夜の空に火焔《かえん》の字をもて大書した様に読まるゝのです。獅子は久しく眼に見えぬ檻《おり》の中で獅子吼《ししく》をしたり、毬《まり》を弄《もてあそ》んだり、無聊《むりょう》に悶《もだ》えたりして居ましたが、最後に身を跳《おど》らして一躍《いちやく》檻外《らんがい》に飛び出で、万里の野に奔《はし》って自由の死を遂げました。惨《いた》ましく然も偉大なる死! 先生の死は、先生が最後の勝利でした。夫人、あなたは負けました。だからあなたの煩悶《はんもん》も、御家の沸騰《ふっとう》も起きたのです。但今は斯く思うものゝ、其当時私は思いました、先生は先生としても、何故あなたも令息令嬢達も黙って哀《かな》しんで居られることが出来なかったのでしょう乎。何故の彼《あの》諍論《そうろん》? 何故の彼喧嘩? 無論先生の出奔と死は、云わば爆裂弾《ばくれつだん》を投げたもので、あとの騒ぎが大きいのが自然であるし、また必要でもあるし、石が大きければ水煙も夥《おびただ》しいと云った様なもので、傍眼《わきめ》には醜態《しゅうたい》百出トルストイ[#「トルストイ」に傍線]家の乱脈《らんみゃく》と見えても、あなたの卒直《そっちょく》一剋《いっこく》な御性質から云っても、令息令嬢達の腹蔵《ふくぞう》なき性質から云っても、世界の目の前にある家の立場《たちば》から云っても、云うべき事は云わねばならず、弁難《べんなん》論諍《ろんそう》も致方はもとよりありますまい。苟且《かりそめ》の平和より真面目の争はまだ優《まし》です。但《ただ》私は先生の彼《あの》惨《いた》ましい死を余儀なくした其事情を思うに忍びず、また先生の墓上《ぼじょう》涙《なみだ》未《いま》だ乾かざるに家族の方々が斯く喧嘩《けんか》さるゝを見るに忍びなかったのであります。然し我々は人間です。人間として衝突は自然の約束であります。先生もよく/\思い込まるればこそ、彼|死様《しによう》をされた。而《そう》して偽《いつわ》ることを得《え》為《せ》ぬトルストイ[#「トルストイ」に傍線]家の人々なればこそ、彼|争《あらそい》もあったのでしょう。加之《それに》、承われば此頃では諸事《しょじ》円滑《えんかつ》に運んで居るとやら、愚痴《ぐち》は最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇に因《よ》り御一同の大小《だいしょう》浅深《せんしん》さま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且|祷《いの》るのみであります。
四
勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じの筈《はず》。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。否《いや》、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んで為《せ》られたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度《さいど》にあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石と抛《なげう》つ場合もあります。獅子は子を崖《がけ》から落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難い宝《たから》なのです。先生にとって人の象《かたち》をとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言《うわごと》にもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様《あん》な死をされた。あなたは衷心《ちゅうしん》に確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛の下《もと》に頭を低《た》れて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊《ふき》独立《どくりつ》なもの、肉体一世の結合は彼|若《もし》くば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたの路《みち》を別々に辿《たど》られたのも致方は無いものゝ、先生が肉の衣《ころも》を脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式《こんごうせきこんしき》でもなく、第二の真の結婚が御両人《おふたり》の間に成就されん事を祈って已《や》まないのであります。悲哀《ひあい》を通して我々は浄《きよ》められるのです。苦痛を経由《けいゆ》して我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御|出《いで》でしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]小王国《しょうおうこく》の皇太后で御出ですが、同時にあなたを識《し》る程の者の母君となられるのである事をお忘《
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