ふっつりM君の消息を聞かなかったが、翌年《よくとし》ある日の新聞に、M君が安心《あんしん》を求む可く妻子を捨てゝ京都|山科《やましな》の天華香洞《てんかこうどう》に奔《はし》った事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見たが、やがて君が死去の報は伝えられた。
 見神の一義に君は到頭《とうとう》精力《せいりょく》を傾注《けいちゅう》せずに居られなくなったのである。而《しか》して生涯の大事《だいじ》、生存の目的を果したので、君は軽く肉の衣《ころも》を脱いだのであろう。
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     ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]の未亡人へ

       一

 夫人《おくさん》。
 私は夙《とく》に手紙を差上げねばならなかったのでした。実は幾回《いくたび》も幾回もペンを執《と》ったのでした。ペンを執りは執りながら、如何《どう》しても書くことが出来なかったのです。今日《きょう》、ビルコフ[#「ビルコフ」に傍線]さんの書いた故先生小伝の英訳を見て居ましたら、丁度先生の逝去《せいきょ》六週間前に撮影されたと云う先生とあなたの写真が出て居ました。熟々《つくづく》見て居る内に、私の眼は霞《かす》んで来ました。嗚呼ものが言いたい! 話がしたい! 然し先生は最早《もう》霊です。私の拙《まず》い言葉を仮《か》らずとも、先生と話すことが出来ます。書くならあなたに書かねばならぬ。そこで此手紙を書きます。私はうちつけに書きます。万事直截其ものでお出のあなたは、私が心底《しんそこ》から申すことを容《ゆる》して下さるだろうと思います。

       二

 何から申しましょうか。書く事があまり多い。最初先生の不可思議《ふかしぎ》な遽《にわ》かの家出を聞いた時、私は直ぐ先生の終が差迫《さしせま》って来た事を知りました。それで先生の訃《ふ》に接した時も、少しも驚きませんでした。勿論先生を愛する者にとっては、先生の最期は苦しい最期でした。何故《なぜ》先生は愛妻愛子愛女の心尽しの介抱《かいほう》の中に、其一片と雖も先生を吾有《わがもの》と主張し要求し得ぬものはない切っても切れぬ周囲の中に、穏《おだやか》に死なれる事が何故出来なかったでしょうか? 何故其生の晩景《ばんけい》になって、あわれなひとり者の死に様をする為に其温かな巣《す》からさまよい出られねばならなかったのでしょうか? 世故《せこ》を経尽《へつく》し人事を知り尽した先生が、何故其老年に際し、否《いや》墓に片脚《かたあし》下《おろ》しかけて、釈迦牟尼《しゃかむに》の其生の初に為《せ》られた処をされねばならなかったか? 世間は誰しも斯く驚き怪《あやし》みました。不相変|主我的《しゅがてき》だと非難した者も少なくありませんでした。一風《いっぷう》変《かわ》った天才の気まぐれと笑ったのは、まだよい方かも知れません。先生もつらかったでしょう。然し夫人《おくさん》、悲痛の重荷は偏《ひとえ》にあなたの肩上に落ちました。あなたの経歴された処は、思うも恐ろしい。長い長い生涯の間、先生と棲《す》んで先生を愛されたあなたが、此世の旅の夕蔭《ゆうかげ》に、見棄てゝしまわれた様な姿になられようとは! 而《そう》してトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の邪魔物は此であると云った様に白昼《ひるひなか》世界の眼の前に曝《さら》しものになられようとは! 夫人、誰かあなたに同情をさゝげずに居られましょう乎。如何に頑固な先生の加担者《かとうど》でも、如何程|苦《にが》り切ったあなたの敵対者《てきたいしゃ》でも、堪え難いあなたの苦痛と断腸《だんちょう》の悲哀《かなしみ》とは、其幾分を感ぜずに居られません。彼池の滸《ほと》りの一刹那《いっせつな》を思うては、戦慄《せんりつ》せずには居られません。

       三

 然し夫人、世に先生を非難する者の多かった様に、あなたを非難する者も少くありませんでした。白状します、私も其一人でした。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]と云う様な偉大な名は、世界の目標です。先生や先生の一家一門の所作《しょさ》は、万人の具《つぶさ》に瞻《み》る所、批評の的《まと》であります。そこで先生の哀《かな》しい最期前後の出来事は、如何様《どのよう》な微細な事までも、世界中の新聞雑誌に掲載されて、色々の評判を惹起《ひきおこ》しました。私は漏らさず其記事を見ました。無論|誤報《ごほう》曲説《きょくせつ》も多かったでしょう。針小棒大《しんしょうぼうだい》の記事も沢山あったに違いありません。然し打明けて云えば、其記事については、私は非常に心を痛《いた》むる事が多かった。打明けて云えば、夫人、私はあなたに対して少からぬ不平があったのです。勿論白が弥《いや》白くなれば
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