かりそめに草にとまったかとも思われる。寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉《きんふん》を浮べた花蕊《かずい》の黄《き》に映発《えいはつ》して惜気もなく咲き出でた花の透《す》き徹《とお》る様な鮮《あざ》やかな純碧色は、何ものも比《くら》ぶべきものがないかと思うまでに美しい。つゆ草を花と思うは誤《あやま》りである。花では無い、あれは色に出た露の精《せい》である。姿|脆《もろ》く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那《せつな》の天の消息でなければならぬ。里のはずれ、耳無地蔵の足下《あしもと》などに、さま/″\の他の無名草《ななしぐさ》醜草《しこぐさ》まじり朝露を浴びて眼がさむる様《よう》に咲いたつゆ草の花を見れば、竜胆《りんどう》を讃《ほ》めた詩人の言を此にも仮《か》りて、青空の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》滴《したた》り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦《よみがえ》らせるつゆ草よ、地に咲く天の花よと讃《たた》えずには居られぬ。「ガリラヤ[#「ガリラヤ」に二重傍線]人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間《ま》に蹂《ふ》みにじる。
碧色の草花として、つゆ草は粋《すい》である。
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おぼろ夜
早夕飯のあと、晩涼《ばんりょう》に草とりして居た彼は、日は暮れる、ブヨは出る、手足を洗うて上ろうかとぬれ縁に腰かけた。其時門口から白いものがすうと入って来た。彼はじいと近づくものを見て居たが、
「あゝM君《くん》ですか」
と声《こえ》をかけた。
其は浴衣の着流《きなが》しで駒下駄を穿《は》いたM君であった。M君は早稲田《わせだ》中学の教師で、かたわら雑誌に筆を執って居る人である。彼が千歳村に引越したあくる月、M君は雑誌に書く料《りょう》に彼の新生活を見に来た。丁度《ちょうど》樫苗《かしなえ》を植えて居たので、ろく/\火の気の無い室に二時間も君を待たせた。君は慍《いか》る容子もなく徐《しずか》に待って居た。温厚な人である。其れから其年の夏、月の好《い》い一夜《いちや》、浴衣の上に夏羽織など引かけて、ぶらりと尋ねて来た。M君は綱島《つなしま》梁川《りょうせん》君《くん》の言として、先ず神を見なければ一切の事悉く無意義だ、神を見ずして筆を執るなぞ無用である、との説に関し、自身の懊悩《おうのう》を述べ、自分の様な鈍根の者は、一切を抛擲《ほうてき》して先ず神を見る可く全力を傾注する勇気が無い、と嘆息して帰った。
其後久しく消息を聞かなかったが、今夜一年ぶりに突然君は来訪したのであった。
君の所要は、先月|茅《ち》ヶ崎《さき》で物故した一文士に関する彼の感想を聞くにあった。彼は故人について取りとめもない話をした。故人と彼とは同じ新聞社の編輯局《へんしゅうきょく》に可なり久しく居たのであったが、故人は才華発越、筆をとれば斬新警抜《ざんしんけいばつ》、話をすれば談論火花を散らすに引易え、彼はわれながらもどかしくてたまらぬ程の迂愚《うぐ》、編輯局の片隅に猫の如く小さくなって居たので、故人と心腹を披《ひら》いて語る機会もなく、故人の方には多少の侮蔑《ぶべつ》あり、彼の方には多少の嫉妬《しっと》羨望《せんぼう》あり、身は近く心ははなれ/″\に住んだ。其後故人も彼も前後に新聞社を出て、おの/\自家《じか》の路を歩み、顔を見ること稀に、消息を聞かぬ日多く打過ぎた。然し彼は一度故人と真剣の話をしたいと久しく思うて居た。日露戦争の終った年の暮、彼は一の心的革命を閲《けみ》して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓《ざっとう》の中に故人を見出した。何処《どこ》ぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折《なかおれ》をかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒《さっぱり》した洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅《かたすみ》に引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔《そかく》を謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始《さいし》の接近で、また最後の面会であった。
M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。
彼等は久しく芝生の縁代《えんだい》で話した。M君が辞《じ》し去ったのは、夜も深《ふ》けて十二時近かった。
彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧《ぼんやり》とうち煙り、田圃《たんぼ》の蛙《かわず》の声も夢を誘う様なおぼろ夜である。
「それじゃ」
「失礼」
駒下駄の音も次第《しだい》に幽《かすか》になって、浴衣《ゆかた》姿《すがた》の白いM君は吸わるゝ様に靄《もや》の中に消えた。
*
其後
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