も宿《やど》る紫、波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも大理石にも樺《かば》の膚《はだ》にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白《しろ》、数え立つれば際限《きり》は無い。色と云う色、皆《みな》好《す》きである。
 然しながら必其一を択《えら》まねばならぬとなれば、彼は種として碧色を、度《ど》として濃碧《のうへき》を択ぼうと思う。碧色――三尺の春の野川《のがわ》の面《おも》に宿るあるか無きかの浅碧《あさみどり》から、深山の谿《たに》に黙《もだ》す日蔭の淵の紺碧《こんぺき》に到るまで、あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊《こと》に鮮《あざ》やかに煮え返える様な濃碧は、彼を震いつかす程の力を有《も》って居る。
 高山植物の花については、彼は呶々《どど》する資格が無い。園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。西洋草花《せいようくさばな》にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。春竜胆《はるりんどう》、勿忘草《わすれなぐさ》の瑠璃草も可憐な花である。紫陽花《あじさい》、ある種の渓※[#「くさかんむり/孫」、第3水準1−91−17]《あやめ》、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。秋には竜胆《りんどう》がある。牧師の着物を被た或詩人は、嘗《かつ》て彼の村に遊びに来て、路に竜胆の花を摘《つ》み、熟々《つくづく》見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。露の乾《ひ》ぬ間《ま》の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素《ようそ》とする。それから夏の草花には矢車草がある。舶来種のまだ我《わが》邦土《ほうど》には何処やら居馴染《いなじ》まぬ花だが、はらりとした形も、深《ふか》い空色も、涼しげな夏の花である。これは園内《えんない》に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄《き》ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗ってトルストイ翁《おう》のヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]に赴《おもむ》く時、朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮《こうふん》とで熱病患者の様であった彼の眼にも、花の空色は不思議に深い安息《いこい》を与えた。
 夏には更《さら》に千鳥草《ちどりそう》の花がある。千鳥草、又の名は飛燕草。葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状《さま》をして居る。園養《えんよう》のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞《しま》のもあるが、野生の其《そ》れは濃碧色《のうへきしょく》に限られて居る様だ。濃碧が褪《うつろ》えば、菫色《すみれいろ》になり、紫になる。千鳥草と云えば、直ぐチタ[#「チタ」に二重傍線]の高原が眼に浮ぶ。其れは明治三十九年露西亜の帰途《かえり》だった。七月下旬、莫斯科《もすくわ》を立って、イルクツク[#「イルクツク」に二重傍線]で東清鉄道の客車に乗換え、莫斯科を立って十日目《とおかめ》にチタ[#「チタ」に二重傍線]を過ぎた。故国を去って唯四ヶ月、然しウラル[#「ウラル」に二重傍線]を東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。イルクツク[#「イルクツク」に二重傍線]で乗換《のりか》えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。イルクツク[#「イルクツク」に二重傍線]から一駅毎に支那人を多く見た。チタ[#「チタ」に二重傍線]では殊《こと》に支那人が多く、満洲《まんしゅう》近い気もち十分《じゅうぶん》であった。バイカル[#「バイカル」に二重傍線]湖《こ》から一路上って来た汽車は、チタ[#「チタ」に二重傍線]から少し下りになった。下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗《のぞ》いて居ると、空にはあらぬ地の上の濃い碧色《へきしょく》がさっと眼に映《うつ》った。野生千鳥草の花である。彼は頭を突出して見まわした。鉄路の左右、人気も無い荒寥《こうりょう》を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧《のうへき》の其花が、今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫《むらさき》がかったり、まだ蕾《つぼ》んだり、何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。窓に凭《もた》れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。
 然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優《ま》した美しい碧色を知らぬ。つゆ草、又の名はつき草、螢草《ほたるぐさ》、鴨跖草《おうせきそう》なぞ云って、草姿《そうし》は見るに足らず、唯二弁より成《な》る花は、全き花と云うよりも、いたずら子に※[#「手へん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》られたあまりの花の断片か、小さな小さな碧色の蝶《ちょう》の唯《ただ》
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