《めりやす》の股引《ももひき》白足袋《しろたび》に高足駄をはき、彼女は洋傘《こうもり》を杖《つえ》について海松色《みるいろ》の絹天《きぬてん》の肩掛《かたかけ》をかけ、主婦に向うて、
「何卒《どうぞ》覚《おぼ》えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

 一年程過ぎた。
 此世から消え失せたかの様に、二人の消息《しょうそく》ははたと絶えた。
「如何《どう》したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
 主人夫妻は憶《おも》い出《だ》す毎《たび》に斯く云い合った。
 丁度《ちょうど》満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日《いちにち》一夜《いちや》を忘れなかった、と書いてある。
 吁《ああ》彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言《いちごん》を言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中《ひゃっかえんちゅう》のそゞろあるきではあるまい、とは期《ご》して居たが、彼女は早くも死んだの乎。
 聞《き》きたいのは、沈黙の其一年の消息である。知りたいのは、其《その》死《し》の状《さま》である。

           *

 あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。
 彼等夫妻は千曲川《ちくまがわ》の滸《ほとり》に家をもち、養鶏《ようけい》などやって居た。而して去年《きょねん》の秋の暮、胃病《いびょう》とやらで服薬して居たが、ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加《つけくわ》えた。

           *

 某氏はまた斯様《こん》な話をした。亡くなった彼女は、思い切った女であった。人の為に金でも出す時は己が着類《きるい》を質入《しちい》れしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫《ぜんふ》は親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇《やそ》を信じて外川先生の門人となるに及んで、聖書の教を文句通《もんくどお》り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸《ならずもの》等が借金に押しかけ、数千円は斯くして還らぬ金となった。彼の家には精神病の血があった。彼も到頭遺伝病に犯された。其為彼の妻は彼と別居した。彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家《うち》に時々来ては、妻を呼び出してもろうて逢うた。彼の臨終の場にも、妻は居なかった。此時彼女の魂はとく信州にあったのである。彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。実家の母が瞋《いか》ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に居る時から追々《おいおい》に金を信州へ送り、千曲川の辺の家《うち》も其れで建てたと云うことであった。

           *

 彼夜彼女が持《も》て来てくれたほおずきは、あまり見事《みごと》なので、子供にもやらず、小箪笥《こだんす》の抽斗《ひきだし》に大切にしまって置いたら、鼠が何時の間にか其《その》小箪笥を背《うしろ》から噛破って喰ったと見え、年《とし》の暮《くれ》に抽斗をあけて見たら、中実《なかみ》無しのカラばかりであった。
 年々《ねんねん》酸漿《ほおずき》が紅くなる頃になると、主婦はしみ/″\彼女を憶《おも》い出すと云うて居る。
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     碧色の花

 色彩の中で何色《なにいろ》を好むか、と人に問われ、色彩について極めて多情な彼《かれ》は答に迷うた。
 吾墓の色にす可き鼠色《ねずみいろ》、外套に欲しい冬の杉の色、十四五の少年を思わす落葉松の若緑《わかみどり》、春雨を十分に吸うた紫《むらさき》がかった土の黒、乙女の頬《ほお》に匂《にお》う桜色、枇杷バナナの暖かい黄、檸檬《れもん》月見草《つきみそう》の冷たい黄、銀色の翅《つばさ》を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯《ねったい》の海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉を泛《うか》べ或時は底深く日影金糸を垂《た》るゝ山川の明るい淵《ふち》の練《ね》った様な緑玉《エメラルド》、盛り上り揺《ゆ》り下ぐる岩蔭の波の下《した》に咲く海アネモネの褪紅《たいこう》、緋天鵞絨《ひびろうど》を欺く緋薔薇《ひばら》緋芥子《ひげし》の緋紅、北風吹きまくる霜枯の野の狐色《きつねいろ》、春の伶人《れいじん》の鶯が着る鶯茶、平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠《はとはねずみ》、高山の夕にも亦やんごとない僧《そう》の衣にもある水晶に
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