の見舞車が、水気沢山の畑のものをまだ余燼《よじん》の熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました。私の直接労働の果《み》ではありません。金にして弐拾円です。
東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分|繃帯《ほうたい》した都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中で根《こん》竭《つ》きて首を縊《くく》ったり、倒れて死んだ者もあります。寿永《じゅえい》の昔の平家都落ち、近くば維新当時の江戸幕府の末路を偲《しの》ぶ光景です。村の何《ど》の家にも避難者の五人三人収容しました。私共の家にも其母者が粕谷出身の縁故から娘の一人を預かりました。田舎が勝ち誇る時が来ました。何と云うても人間は食うて生きる動物です。生きものに食物程大切なものはありません。食物をつくる人は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるお邸《やしき》の旦那は、平生|権高《けんだか》で、出入りの百姓などに滅多に顔見せたこともありませんでした。今度の震災で、家は焼け残ったが、早速食う物がありません。見舞に来た百姓に旦那がお辞義の百遍もして、何でもよいから食う物を、と拝《おが》むように頼んだものです。ある避難の家族は、麦《むぎ》がまずいと云うて、「贅沢な」と百姓から、頭ごなしに叱りつけられました。去五月の末まで私共の家に働いて居た隣字のS女の家の傭女《やといめ》が水瓜畑に働いて居ると、裏街道を都落ちの人と見えて母子づれが通りかゝり、水瓜を一つ無心しました。傭人の遠慮して小さなのを一つもいでやると、悦んでそれを持って木蔭に去りました。やがてS女が来たので、傭女は其話をして、あの水瓜は未熟だったかも知れぬと言います。S女は直ぐ大きなよく出来たのをもいで、後追いかけました。都落ちの母子は木蔭で未熟の水瓜を白い皮まで喰い尽して居た所でした。「斯様《こんな》にうまい水瓜をはじめて食べました」とS女に悦びをのべたのでした。こんな時にこそ都会住者も自然の懐《ふところ》のうれし味をしみ/″\思い知ります。田舎の懐を都に開かせ、都の頭《ず》を自然に下げさせる――震災の働きの一つはこれでした。
それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ美的百姓は同様です。「或る百姓の家」を出した江渡幸三郎君のような徹底した百姓と、私共のように米麦を買うて
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