震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷《いた》めます。関心する人人の安否を確《たしか》むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃《ふ》を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然《そう》です。世界戦に日本は手《た》ずさわるとは云う条《じょう》、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱《くげん》を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外|何処《どこ》の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝《つ》かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭《むち》は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲《こ》らしめざる子あらんや」と云う筆法《ひっぽう》から云えば、災禍《さいか》の受け様《よう》にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥《おびただ》しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇《まっくら》に逆上《ぎゃくじょう》します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事|羞《はず》かしい事です。
斯様《こん》な中にもうれしい事はやはりありました。粕谷の人々が相談して、九月の六日に水瓜、玉蜀黍《とうもろこし》、茄子《なす》、夏大根、馬鈴薯《じゃがいも》などを牛車十一台に満載《まんさい》して、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとした装《なり》をして左腕に一様に赤い布を巻き、牛車毎に「千歳村青年会粕谷支部」と書いた紙札を押立て、世話方数名附添うて、朝早く粕谷から練《ね》り出した時、私は思わず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜を截《き》り、馬鈴薯をつかみ、手ずから罹災の人々に頒《わか》ち、玄米と味噌で五日過した人々を「生き返える」と悦ばしたそうです。其報告が私共を喜ばせました。斯くてこそ田舎、十七年前都落ちした私共も都に会わす顔があります。
中一日置いて、九月の八日には千歳村全体から牛車六十台
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