にやって居る者に借金が無い者は殆《ほと》んどない。二十万坪買収は、金に渇《かわ》き切った其或人々にとって、旱田《ひでりだ》に夕立《ゆうだち》の福音《ふくいん》であった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた某々の有力者は、電鉄の先棒となって、盛《さかん》に仲間《なかま》を造りはじめた。金は無論|欲《ほ》しい。脅嚇《おどかし》も勿論|利《き》く。二十万坪の内八万坪、五十三名の地主の内十九名は、売渡《うりわたし》承諾《しょうだく》の契約書《けいやくしょ》に調印してしまった。踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちちゅう》する者もあった。余はある人に斯《こ》う云うた、不用の地所があるなら兎も角、恰好《かっこう》の代地があったら格別、でなければ農が土を手放《てばな》すは魚《うお》の水に離《はな》れるようなものだ、金なんか直ぐ泡《あわ》の様に消えて了う、今更農をやめて転業するなぞは十が十|堕落《だらく》の原《もと》だ。
 売らぬと云う側《がわ》は、人数《にんず》で関係地主の総数《そうすう》五十三人中の三十名、坪数で二十万坪の十二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様《こう》だ。東京が段々《だんだん》西へ寄って来て、豊多摩《とよたま》荏原《えばら》の諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前|専《もっぱ》ら穀作《こくさく》と養蚕《ようさん》でやって居た北多摩郡が豊多摩荏原に代《かわ》って蔬菜《そさい》や園芸品《えんげいひん》を作る様になり、土地の価《あたい》は年々上って来て居る。然るに北多摩郡でも最《もっと》も東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地《はたち》の中、地味《ちみ》も便利も屈指《くっし》の六十余町歩、即ち畑地の一割強を不毛《ふもう》の寺院墓地にして了うのは、惜しいものだ。殊に寺院墓地の如き陰気なものに来られては、陽気な人間は来なくなり、多くなるものは農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏鬮《びんぼうくじ》を引当《ひきあ》てた者は、祖先伝来の家屋敷や畑をすてゝ、代地《だいち》と云えば近くて十丁以内にはなく、他郷に出るか、地所が不足では農をよして他に転業しなければならぬ者もあろう。千歳村五百五十戸の中、小作が六割にも上って居る。大面積《だいめんせき》の寺院墓地が出来て耕地減少の結果、小作料は自然|騰貴《とうき》する。小作料の騰
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