国渡航を賛成したのであった。自分は考えた、彼女が二三年も米国に揉《も》まれると、実にエライ女になって来る。然るに今Fさんの言を聞けば、彼女は短かい期間であったが立派に其人格を完成することが出来た。だから死んだのである」と云うた。
 外川先生の祈祷《きとう》で式は終えた。一同記念の撮影をして、それから遺髪と遺骨を岩倉家の菩提寺《ぼだいじ》の妙楽寺に送った。寺は小山の中腹にある。本堂の背後《うしろ》、一段高い墓地の大きな海棠《かいどう》の下に、
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岩倉馨子之墓
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と云う小さな墓標《ぼひょう》が立てられた。
           *
 葛城は其後間もなく独逸に渡った。

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  千九百十年 六月十八日
             ニューヨーク
本日午後三時当地出帆。
三年苦戦健闘のアメリカを去らんとして感慨強し。闘争は一個微弱なる一少年を化して、兎も角も男を作り候。
馨子を煙とせし北米の空、ふり仰いで涙煙の如く胸を襲《おそ》う。
[#地から3字上げ]勝郎

       十

 生きて居る者は、苦まねばならぬ。死んだお馨さんは、霊になって猶働きつゝあるのだ。
「お馨さんの梅」は、木の生くる限り春毎に咲くであろう。短く此生に生きたお馨さんは、永久に霊に活きて働くであろう。
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     関寛翁

       一

 明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺《じい》さんが訪《たず》ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺《じじい》と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顋《あご》に些《ちと》の疎髯《そぜん》をヒラ/\させ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我《が》を折った。
 兎も角も上に請《しょう》じ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごり/\した無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
 其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た
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