。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作《ぞうさ》もないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官と反《そ》りが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々《しし》として仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼《おうおん》共《とも》に健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるを嫌《きら》った。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及び老《お》いの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、型《かた》の如く突然たるものであった。
 爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙《けいし》に蠅頭《じょうとう》の細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端《ちゅうとはんぱ》な彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざ/\来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇《ほしわらび》、萩のステッキ、鶉豆《うずらまめ》なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南《しょうなん》の老父に此
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