は草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田《しんでん》の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕《われら》の心も草だらけである。四囲《あたり》の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうっちゃって置けば、我儕は草に埋《う》もれて了う。そこで草を除る。己《わ》が為に草を除るのだ。生命《いのち》の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落《だらく》して了う。
「爾《なんじ》我言に背いて禁菓《きんか》を食《く》いたれば、土は爾の為に咀《のろ》わる。土は爾の為に荊棘《いばら》と薊《あざみ》を生《しょう》ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食《くら》わん」
 斯く旧約聖書《きゅうやくせいしょ》は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。

       二

 美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除《と》るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云う。草をとって生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いずれにしても土の肥料《こやし》にしてしまう。馴付《なつ》けた敵は、味方である。「年々や桜を肥《こや》す花の塵」美しい花が落ちて親木《おやき》の肥料になるのみならず、邪魔の醜草《しこぐさ》がまた死んで土の肥料になる。清水却て魚棲まず、草一本もない土は見るに気もちがよくとも、或は生命なき瘠土《せきど》になるかも知れぬ。本能は滅す可からず、不良青年は殺さずして導く可きであることを忘れてはならぬ。誰か其|懐《ふところ》に多少の草の種を有って居らぬ者があろうぞ?
 畑の草にも色々ある。つまんでぬけばすぽっとぬけて、しかも一種の芳《かんば》しい香《か》を放つ草もある。此辺で鹹草《しょっぱぐさ》と云う、丈《たけ》矮《ひく》く茎《くき》紅《あか》ぶとりして、頑固らしく※[#「足へん+番」、第4水準2−89−49]《わだかま》って居ても、根は案外浅くして、一挙手に亡ぼさるゝ草もある。葉も無く花も無く、地下一尺の闇を一丈も二丈も這いまわり、人知れず穀菜に仇なす無名草《ななしぐさ》もある。厄介なのは、地縛《じしば》り。単弁《たんべん》の
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