無限大を以てして一滴《いってき》の露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾《しゅゆ》の命《いのち》を小枝《さえだ》に托するはかない水の一雫《ひとしずく》、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾の栄《さかえ》を現わさん為に、爾の子の栄を顕《あら》わし玉え」
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の祈は彼の口を衝いて出た。
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天つ日の光に玉とかがやかば
などか惜まん露の此の身を
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草とり
一
六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的|脆弱《ぜいじゃく》な五穀蔬菜は、野草《やそう》に杜《ふさ》がれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導《さいせいほどう》は人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるゝのである。
老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗《じゅうのう》でも使いたい程、畑の草田の草は猛烈《もうれつ》に攻め寄する。飯焚《めした》く時間を惜んで餅《もち》を食い、茶もおち/\は飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治《たいじ》せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋は烈《はげ》しく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕蔭《ゆうかげ》にとる。取りきれないで、日中《にっちゅう》にもとる。やっと奇麗になったかと思うと、最早一方では生えて居る。草と虫さえ無かったら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴《ぐち》をこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草《くさとり》器械《きかい》にならねばならぬか。除草は愚だ、うっちゃって草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残っただけを此方に貰《もら》えば済む。というても、実際眼前に草の跋扈《ばっこ》を見れば、除《と》らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種《たね》を隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思わねばならぬ。
そこでまた勇気を振起《ふりおこ》して草をとる。一本また一本。一本除れば一本|減《へ》るのだ。草の種は限なくとも、とっただけ
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