いたずら》に蛇を投げかけようとした者を已に打果《うちはた》すとて刀《かたな》の柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇の巣《す》と云わるゝ竹生島《ちくふじま》に庵《いおり》を結び、蛇の中で修行した話は、西鶴《さいかく》の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちた襷《たすき》と間違《まちが》えて何より嫌いな蛇を握《にぎ》り、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿《ふんにょう》にも道あり、蛇も菩提《ぼだい》に導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入《はいり》かねてや蛇の穴」とは古人の句。醜《みにく》い姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地《いんち》にのたくり、弱きを窘《いじ》めて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫に化《な》って居る彼自身ではあるまいか。己《わ》が醜《みに》くさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
生命は共通である。生存は相殺《そうさつ》である。自然は偏倚《へんい》を容《ゆる》さぬ。愛憎《あいぞう》は我等が宇宙に縋《すが》る二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
好きなものが毒になり、嫌いなものが薬《くすり》になる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命《いのち》は斯くして有《たも》たるゝのである。
好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕《われら》の理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。
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露の祈
今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅《いちぐう》に走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩《かれはぎ》の枝にものが光る。玉だ! 誰が何時《いつ》撒《ま》いたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆《さたん》してやゝしばし見とれた。近寄って一の枝に触《さわ》ると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々《こうこう》と輝く朝日を見た。
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あゝ朝日!
爾《なんじ》の
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