《あわ》たゞしさを抑《おさ》えて、心静《こころしずか》に※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]の声低く語る教訓を聴かねばならぬ。
[#改ページ]
驟雨浴
両三日来、西の地平線上、甲相武信の境を造くる連山の空に当って、屡々《しばしば》黒雲が立った。遠寄《とおよせ》の太鼓の様に雷も時々鳴る。黒雲の幕の中で、ぱっ/\と火花を散す様に、電光も射す。夕立が来ると云いながら、一滴も落ちずして二三日過ぎた。
土用太郎《どようたろう》は涼しい彼の家でも九十一度と云う未曾有の暑気であった。土用二郎の今日《きょう》は、朝来少し曇ったが、風と云うものはたと絶え、気温は昨日程上って居ないにも拘わらず、脂汗《あぶらあせ》が流れた。
昼飯を食って汗になったので、天日で湯と沸《わ》いて居る庭の甕《かめ》の水を浴び、籐《とう》の寝台に横になって新聞を見て居る内に、快《い》い心地になって眠って了うた。
一寝入して眼をさますと、室内が暗くなって居る。時計を見ると、まだ二時廻ったばかりである。縁側に出て見た。南の方は明るく、午後二時の日がかん/\照って居るが、西の方が大分暗い。近村の二本松を前景《ぜんけい》にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延いた様に妙に黄色になり、其上層は人を脅《おど》す様な真黯《まっくら》い色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみ妙《みょう》に黄朱《おうしゅ》を抹《なす》った様になる時は、屹度何か出て来る。已《すで》に明治四十一年の春の暮、成人《おとな》の握掌大《にぎりこぶしほど》の素晴しい雹が降った時も然《そう》だった。斯う思いながら縁から見て居ると、頭上《ずじょう》の日はカン/\照りながら、西の方から涼しいと云うより寧《むしろ》冷《つめ》たい気が吻々《ふつふつ》と吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。山から都へ行く途中、彼が住む野の村を過《よ》ぎるのである。
西は本気に曇った。雷様も真面目に鳴り出した。最早多摩川の向うは降って居るのであろう。彼は大急ぎで下りて、庭に乾してあった仕事着やはだし足袋《たび》を取り入れた。帰って北の窓をあけると、面《つら》が冷やりとした。北の空は一面鼠色になって居る。日傭《ひよ
前へ
次へ
全342ページ中116ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング