なび》かす様な花薄《はなすすき》である。子供が其れを剪《き》って来て、十五夜の名月様に上げる。萱は葺料にして長もちするので、小麦からの一束《ひとたば》五厘に対し、萱は一銭も其上もする。そこで萱野《かやの》を仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減って行くばかりである。
 九月は農家の祭月《まつりづき》、大事な交際季節《シーズン》である。風の心配も兎やら恁《こ》うやら通り越して、先|収穫《しゅうかく》の見込がつくと、何処《どこ》の村でも祭をやる。木戸銭御無用、千客万来の芝居、お神楽《かぐら》、其れが出来なければ詮方《せんかた》無しのお神酒《みき》祭《まつり》。今日は粕谷か、明日《あす》は廻沢《めぐりさわ》烏山《からすやま》は何日で、給田が何日、船橋では、上下祖師ヶ谷では、八幡山では、隣村の北沢では、と皆が指折《ゆびおり》数《かぞ》えて浮き立つ。彼方の村には太鼓が鳴る。此方《こち》の字《あざ》では舞台《ぶたい》がけ。一村八字、寄合うて大きくやればよさそうなものゝ、八つの字には八つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九|軒《けん》の八幡山でも、各自に自家《うち》の祭をせねば気が済《す》まぬ。祭となれば、何様な家でも、強飯《おこわ》を蒸《ふか》す、煮染《にしめ》をこさえる、饂飩《うどん》をうつ、甘酒《あまざけ》を作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は此方のお神楽《かぐら》で、平生《ふだん》は真白な鳥の糞《ふん》だらけの鎮守の宮も真黒《まっくろ》になる程人が寄って、安小間物屋、駄菓子屋、鮨屋《すしや》、おでん屋、水菓子屋などの店が立つ。神楽は村の能狂言《のうきょうげん》、神官が家元で、村の器用な若者等が神楽師《かぐらし》をする。無口で大兵の鉄さんが気軽に太鼓をうったり、気軽の亀さんが髪髯《かみひげ》蓬々《ぼうぼう》とした面をかぶって真面目に舞台に立ちはだかる。「あ、ありゃ亀さんだよ、まァ」と可笑《おか》しざかりのお島がくつ/\笑う。今日自家の祭酒に酔うた仁左衛門さんが、明日は隣字の芝居で、透綾《すきや》の羽織でも引被《ひっか》け、寸志の紙包《かみづつみ》を懐中して、芝居へ出かける。毎日近所で顔を合して居ながら、畑の畔《くろ》の立話にも、「今日は」
前へ 次へ
全342ページ中93ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング