《ふれ》が来る。村の衛生係が草鞋ばきの巡査さんと溷《どぶ》、掃溜《はきだめ》を見てあるく。其巡査さんの細君が赤痢になったと云う評判が立つ。鉦《かね》や太鼓で念仏《ねんぶつ》唱《とな》えてねりあるき、厄病禳《やくびょうばら》いする村もある。
 其様《そん》な騒《さわ》ぎも何時しか下火になって、暑い/\と云う下から、ある日|秋蝉《つくつくぼうし》がせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花《おばな》が出て覗《のぞ》く。甘藷を手掘りすると、早生は赤児《あかご》の腕程になって居る。大根、漬菜《つけな》を蒔かねばならぬ。蕎麦、秋馬鈴薯もそろ/\蒔かねばならぬ。暫《しばら》く緑一色であった田は、白っぽい早稲の穂の色になり、畑では稗《ひえ》が黒く、黍《きび》が黄に、粟が褐色《かちいろ》に熟《う》れて来る。粟や黍は餅《もち》にしてもまだ食える。稗は乃木さんでなければ中々食えぬ。此辺では、米を非常、挽割麦《ひきわりむぎ》を常食にして、よく/\の家でなければ純稗《さらひえ》の飯は食わぬ。下肥《しもごえ》ひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラ/\して咽《のど》を通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶ/\流し込むのである。若い者の楽《たのしみ》の一は、食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と忿《いか》って飛び出した作代《さくだい》もある。

       九

 九月は農家の厄月《やくづき》、二百十日、二百二十日を眼の前に控えて、朔日《ついたち》には風祭をする。麦桑に雹《ひょう》を気づかった農家は、稲に風を気づかわねばならぬ。九月は農家の鳴戸《なると》の瀬戸だ。瀬戸を過ぐれば秋の彼岸《ひがん》。蚊帳《かや》を仕舞う。おかみや娘の夜延《よなべ》仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥《もず》が、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗が笑《え》む。豆の葉が黄ばむ。雁来紅《けいとう》が染《そ》むを相図に、夜は空高く雁《かり》の音《ね》がする。林の中、道草の中、家の中まで入り込んで、虫と云う虫が鳴き立てる。早稲が黄ろくなりそめる。蕎麦の花は雪の様だ。彼岸花と云う曼珠沙華《まんじゅしゃげ》は、此辺に少ない。此あたりの彼岸花は、萩《はぎ》、女郎花《おみなえし》、嫁菜《よめな》の花、何よりも初秋の栄《さかえ》を見せるのが、紅く白く沢々《つやつや》と絹総《きぬぶさ》を靡《
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