んふさい》の前にならべた。葡萄液|一瓶《ひとびん》、「醗酵《はっこう》しない真の葡萄汁《ぶどうしる》です」と男が註を入れた。杏《あんず》の缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出《とりだ》したのは、十七八ずつも実《な》った丹波酸漿《たんばほおずき》が二本。いずれも紅《あか》いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事《みごと》な」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母《うば》が丹精《たんせい》して大事に大事に育てたのです」と婦人が誇《ほこ》り貌《が》に口を添えた。二つ三つ語を交《か》わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者《やそしんじゃ》、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日《あした》は少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。
兎に角|飯《めし》を食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女が憂《うれ》わしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好《いけな》かった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊《わがままぼっ》ちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉《かいろ》を入れてやった。大分《だいぶ》落《おち》ついたと云う。晩《おそ》くなって風呂が沸《わ》いた。まあお客様からと請《しょう》じたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。寝《ね》ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組《しゅじんぐみ》は此方《こち》、客は彼方《あち》と頭《あたま》突《つ》き合わせである。無い蒲団を都合《つごう》して二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。
三
明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯《あさめし》を十時にやります。あなた方はお構《かま》いなく」と何方《どち》が主やら客やら分《わ》からぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。
畠仕事《はたけしごと》をして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。彼《かれ》は生活の闘烈しい雪の山国《やまぐに》に生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当《かんどう》同様《どうよう》の身
前へ
次へ
全342ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング