となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖《さしづえ》を取ると、突然《いきなり》劇《はげ》しく先生たる彼の背《せなか》を殴《なぐ》った。彼は徐《しずか》に顧みて何を為《す》ると問うた。其《その》生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下《ごめんくだ》さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、と跪《ひざまず》いて詫《わ》びた。彼は其生徒を賞《ほ》めて、辞退するのを無理に筆を三本|褒美《ほうび》にやった。
斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生が炙《い》れて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。
女は甲州の釜無川《かまなしがわ》の西に当る、ある村の豪家の女《むすめ》であった。家では銀行などもやって居た。親類内《しんるいうち》に嫁に往ったが、弟が年若《としわか》なので、父は彼女夫妻を呼んで家《うち》の後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目《よそめ》には模範的夫婦と見られた。良人《おっと》はやさしい人で、耶蘇《やそ》教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州《しんしゅう》の一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心を撼《うご》かした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時《いつ》となく彼女と彼の間に無線電信《むせんでんしん》がかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、妻《つま》に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若《としわか》ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭《とうとう》家《うち》を脱け出して信州の彼が許《もと》に奔《はし》ったのである。
*
朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内《みちしるべ》かた/″\柳行李を負《お》わせてやることにした。
彼は尻をからげて、莫大小
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