《その》後《のち》白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。笛吹川《ふえふきがわ》未曾有《みそう》の出水で桃林橋が落ちた。防水護岸の為|一村《いっそん》の男総出で堤防に群《むら》がって居ると、川向うの堤に白いものゝ影が見えた。其は隣郡に遊びに往って居た白であった。白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、白は向うの堤を川上へ凡《およそ》二丁ばかり上ると、身を跳《おど》らしてざんぶとばかり濁流、箭の如《ごと》き笛吹川に飛び込んだ。あれよ/\と罵《ののし》り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、斜に洪水の川を游《およ》ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉《いっせい》に喝采の声をあげた。弱い彼にも猟犬《りょうけん》即《すなわ》ち武士の血が流れて居たのである。
白に関する最近の消息は斯《こ》うであった。昨春《さくしゅん》当時《とうじ》の皇太子殿下今日の今上陛下《きんじょうへいか》が甲州御出の時、演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。其《その》時《とき》吠《ほ》えたりして貴顕に失礼《しつれい》があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。主人が拘束されなかったのはまだしもであった。
四
白の旧主《きゅうしゅ》の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアル種《しゅ》の鼠《ねずみ》程《ほど》な可愛い牝犬《めいぬ》をもらって来てくれた。ピンと名をつけて、五年来《ごねんらい》飼うて居る。其子孫も大分|界隈《かいわい》に蕃殖した。一昨年から押入婿《おしいりむこ》のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。昨秋からは追うても捨《す》てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来《ふうらい》の牝犬も居る。然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。
[#ここから5字下げ]
白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。「白」は幸福な犬です。
大正十二年二月九日追記
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
ほおずき
一
其頃は女中も
前へ
次へ
全342ページ中57ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング