に記憶されるのであった。
 村入して間もなく、ある夜|先家主《せんやぬし》の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。二子の渡《わたし》の近所から貰って来たと云う。鼻尖《はなさき》から右の眼にかけ茶褐色の斑《ぶち》がある外は真白で、四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前《きまえ》鷹揚《おうよう》に、坊ちゃんと云った様な小犬である。既に近所からもらった黒い小犬もあるので、二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、到頭貰うことにした。今まで畳《たたみ》の上に居たそうな。早速《さっそく》畳に放尿《いばり》して、其晩は大きな塊《かたまり》の糞を板の間にした。
 新来の白《しろ》に見かえられて、間もなく黒《くろ》は死に、白の独天下となった。畳から地へ下ろされ、麦飯《むぎめし》味噌汁《みそしる》で大きくなり、美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。雄《おす》であったが、雌《めす》の様な雄であった。
 主夫妻《あるじふさい》が東京に出ると屹度|跟《つ》いて来る。甲州《こうしゅう》街道《かいどう》を新宿へ行く間《あいだ》には、大きな犬、強い犬、暴《あら》い犬、意地悪い犬が沢山居る。而してそれを嗾《け》しかけて、弱いもの窘《いじ》めを楽む子供もあれば、馬鹿な成人《おとな》もある。弱い白は屹度|咬《か》まれる。其れがいやさに隠れて出る様《よう》にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。而して咬まれる。悲鳴をあげる。二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥《む》き出す。己れより小さな犬にすら尾を低《た》れて恐れ入る。果ては犬の影され見れば、己《われ》ところんで、最初から負けてかゝる。それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。最早《もう》懲《こ》りたろうと思うて居ると、今度出る時は、又候《またぞろ》跟いて来る。而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫《かし》の木の下にぐったり寝ながら、夢中で走るかの様に四肢《しし》を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
 弱くても雄は雄である。交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、村内唯一の牝犬《めいぬ》の許《もと》に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、床の下に三日|潜《もぐ》り込んで居たのであった。武智十次郎ならねども、美しい
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