挿頭花
津村信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)這入《はい》ると
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 戸隠の月夜は九月に這入《はい》ると、幾晩もつづいてゐた――。
 昔、寺侍が住んでゐた長屋、そして一棟の長細い渡り廊下のやうな納屋の壁にそつて、鶏頭の花が咲いて、もう気の早い冬支度か、うづ高く薪が積まれてゐた。
 古いイメージのやうな破風の藁屋根の影を踏んで屋敷の周りを一巡すると、私は前庭に出て、そのまま、廊下から庭に面した書院造りの一間に通つた。
 本坊の庭は、今の主人《あるじ》の祖父か曾祖父にあたる人が造園したものだと云はれてゐる。叡山から来た天台の僧で、遠く信濃路の山に来ても、都のことが忘れかねたものらしい、風雪の跡はあつても、依然として閑雅な京風の趣がある。二株ばかりある萩の花はもう散り初めてゐた。
 その夜の私の夢のなかでは――
 前庭は、昼間のやうに月の光りが鮮かであつた。軽い空気草履のやうな足音がして、枝折戸の蔭から、一人の少女が現はれた。円顔の、耳環の似合ひさうな顔立であつた。少女は、二三歩あるくと、くるりと振り返つて、私の方は背にして、あらぬ方を向いて、おいでおいでをしてゐた。それから、つと、萩の一株にちかづくと、無心に花を摘み初めた。私は知つてゐるぞ、自分が見てゐるぞと心の中で思つた。すると、突然、萩盗人の少女は、私の方に向き直つた。折からの一際《ひときわ》冴えた月の明りに、少女は一寸地蔵眉をよせると、萩の小枝を二本、頭の上に翳《かざ》して、「萩の花はおきらひ?」と尋ねかけた。心持首をかしげてゐる。私の答へがないのを知ると、少女は手にしてゐた小枝を惜しげもなく捨てて、双の手を背後で組み合せるやうな姿態を作つた。と見るとまるで手品師のやうに、今度は片方の手に一輪の真紅な花を提げてゐた、「ダーリヤはおきらひ?」少女はその一輪をまた髪の上に翳して見せた。首を前よりも一層かたむけて。私はそのとき、知つてゐる、貴女は誰だか知つてゐる、さう云つて、危ぶなくその名を口にしようとした。すると、少女は、まるで現在からするりと脱け出るやうな素振りをした。その後は、私の夢のなかでも一片の雲の陰影《かげ》が射したやうに、もうまるで憶えてゐなかつた。
 私の夢は、もうそれとは何の脈絡もなく、他のものに移つてゐた。
 私は、引手の金具に紫の総のついた、重さうな書院の襖
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