をあけた。中は真暗であつた。私はその部屋を急いで横ぎると、又一枚、総のついた襖の金具をひいた。暗闇がやつぱり大きな口をあけてゐた。私はさうやつて、幾つの部屋を過ぎて行つたのだらう。そして、それは果して幾つ目の部屋での事であつたか、私は確かに、欄間に描かれた美しい朱色の牡丹を認めた。それが暗闇のなかで、私の足をとどめたのだ。
「――はおきらひ?」
そんな優しい声は、何処からもきこえてこなかつた。それだのに、恰度《ちょうど》あの萩の花を少女が髪の上に翳して見せたときのやうに、私の心は、明かにその朱色で描かれた牡丹が不満でならなかった…
とがくしの朝は、樹木の多いせゐか、容易に私の部屋まで陽が射してこなかつた。畳廊下の上を踏んで行くと、私の足音で一つびとつの物が目ざめて行くやうだつた。
洗面所で、私は、むかう向きになつて立つてゐる坊の娘を見かけた。
娘は「お早うございます」と挨拶して、「こちらをお使ひ下さいませ」と云つて一つの洗面器をよこした。他の一つには、娘は水をかへて、竜胆《りんどう》の花をつけてゐるところだつた。
「竜胆ですね」と私が云ふと、
「今朝早く裏山で採つてきたのですが、色がすこし悪くつて」
さう云つてから「お部屋にお活けなさるのでしたら、もつといいのを、越水の原か、牧場まで行く道には、もうたんと咲いて居りますわ」とつけ加へた。
「これだつて、すこしも悪くはない」私はさう云つて、その一枝を手にした。とがくしの空色が散つたやうな、深い秋の匂ひがした。
「いい花ですね」私はもう一度云つた。一つの夢を見、もう一つの夢を見た。しかし、これは夢ではない、私はさう思ひながら竜胆の花をしばらく手離しかねてゐた。
底本:「花の名随筆9 九月の花」作品社
1999(平成11)年8月10日初版発行
※底本は表題に「かざし」とルビを付しています。
入力:浅葱
校正:noriko saito
2005年5月14日作成
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