木ほどに清潔《きれい》ではないが、私の気の置けない小《ちさ》い家があるから、と、約束をして、私は、ものの一と月も顔を見なかったような、急々《せかせか》した心持をしながら、電話で聞いただけでは、其の菊水という家もよく分らないし、一つは沢村という家は何様な家か見て置きたいとも思って、人形町の停留場で降りて、行って見ると、成程|蠣殻町《かきがらちょう》二丁目十四番地に、沢村ヒサと女名前の小い表札を打った家がある。古ぼけた二階建の棟割り長屋で、狭い間口の硝子戸をぴったり締め切って、店前《みせさき》に、言い訳のように、数えられるほど「敷島」だの「大和」だのを並べて、他に半紙とか、状袋のようなものを少しばかり置いている。ぐっと差し出した軒灯に、通りすがりにも、よく眼に付くように、向って行く方に向けて赤く大きな煙草の葉を印《しるし》に描《か》いている。「斯ういう処にいて働《かせ》ぎに出るのかなあ!」と、私は、穢《きたな》いような、浅間しいような気がして、暫時《しばらく》戸外《そと》に立ったまゝ静《そっ》と内の様子を見ていた。
「御免!」
 と言って、私は出て来た女に、身を隠すようにして、低声《こごえ
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