う言って見ただけなのか、腹から出たとも口前《くちさき》から出たとも分らないような調子で言うから、
「……智慧を借りるッたって、別に好い智慧もないが、じゃ私が何処かへ隠して上げようか。」
と、女の思惑を察して私も唯一口そう言って見たが、此方《こちら》からそう言うと、女は、
「否《いや》! 何うしても駄目!」と頭振《かぶり》を掉《ふ》った。
「じゃ仕様がない。よく自分で考えるさ。……あゝ遅くなった。もう寝よう。君も寝たまえ。」と、言いながら、私は欠伸《あくび》を噛み殺した。
「えゝ。」と、お宮は気の抜けたような返事をして、それから五分間ばかりして、
「あなたねえ、済みませんが、今晩私を此のまゝ静《そう》ッと寝かして下さい。一昨日から何処の座敷に行っても、私身体の塩梅《あんばい》が悪いからッて、皆な、そう言って断っているの……明日の朝ねえ……はあッ神経衰弱になって了う。」と萎《な》えたように言って、横になったかと、思うと、此方に背を向けて、襟に顔を隠して了った。そうして夜具の中から「あゝ、あなた本当に済みませんが、電灯を一寸《ちょいと》捻って下さい。」
「あゝ/\。よくお寝!」
と、私は立って電灯を消したが、頭の心《しん》が冴えて了って眠られない。
また立って明るくして見た。お宮は眠った眼を眩しそうに細く可愛く開《あ》いて見て、口の中《うち》で何かむにゃ/\言いながら、一旦上に向けた顔を、またくるりと枕に伏せた。私は此度は幕で火影《ほかげ》を包んで置いて、それから腹這いになって、煙草を一本摘んだ。それが尽きると、また立ち上って暗くした。お宮は軈《やが》てぐっすり寝入ったらしい。……私は夜明けまで遂々《とうとう》熟睡しなかった。翌朝《あくるあさ》、お宮は、
「精神的に接するわ。」と、一つは神経の疲れていた所為《せい》もあったろうが、ひどく身体を使った。
「じゃ、これッ切り最《も》う会えないねえ。何だか残り惜しいなあ。お別れに飯でも食べよう。……何が好いか? ……かしわにしようか。」と、私は手を鳴して朝飯《めし》を誂えた。
お宮は所在なさそうに、
「あなた、私に詩を教えて下さい。私詩が好きよッ。」と、言って自分で頼山陽の「雲乎《くもか》山乎《やまか》」を低声《こごえ》で興の無さそうに口ずさんでいる。
その顔を、凝乎《じっ》と見ると、種々《いろん》な苦労をするか、今朝はひどく面窶《おもやつ》れがして、先刻洗って来た、昨夕《ゆうべ》の白粉の痕が青く斑点《ぶち》になって見える。「……万里泊舟天草灘《ばんりふねをはくすあまくさのなだ》……」と唯口の前《さき》だけ声を出して、大きく動かしている下腮《したあご》の骨が厭に角張って突き出ている。斯うして見れば年も三つ四つ老けて案外、そう標致《きりょう》も好くないなあ! と思った。
「ねえ! 教えて下さい。」
と、いうから、「じゃ好いのを教えよう。」と気は進まないながら、自分の好きな張若虚の「春江花月夜《しゅんこうかげつのよ》」を教えて遣った。「これに書いて意味を教えて下さい。」というから巻紙に記して、講釈をして聞かせて遣った。「……昨夜間潭夢落花《さくやかんたんらっかをゆめむ》。可憐春半不還家《あわれむべししゅんぱんいえにかえらず》。江水流春去欲尽《こうすいりゅうしゅんさってつきんとほっす》……」という辺《あたり》は私だけには大いに心遣りのつもりがあった。
飯は済んだが、私はまだ女を帰したくなかった。
お宮は、心は何処を彷徨《うろつ》いているのか分らないように、懐手をして、呆然《ぼんやり》窓の処に立って、つま先きで足拍子を取りながら、何かフイ/\口の中で言って、目的《あて》もなく戸外《そと》を眺めなどしている。
「あなた、一寸々々《ちょいとちょいと》。」
と、いうから、「えッ何?」と、立って、其処に行って見ると、
「あれ、子供が体操の真似をしている。……見ていると面白いよ。」と、水天宮の裏門で子供の遊んでいるのを面白がっている。
私は、「何だ! 昨夜はあんな思い詰めたようなことを言って、今朝の此のフワ/\とした風は? ……」と元の座に戻りながら、不思議に思って、またしても女の態度《ようす》を見戍った。
すると、女は、フッと此方《こちら》を振向いて、窓の処から傍に寄って来ながら、
「あなた、妾を棄てない? ……棄てないで下さい!」と、言葉に力は入っているが、それもまた口の前《さき》から出るのやら、腹の底から出たのやら分らぬような調子で言った。
「あゝ。」と、私もそれに応ずるように返事した。
「じゃ屹度棄てない? ……屹度?」重ねて言った。
そう言われると、此方《こっち》もつい釣込まれて、
「あゝ屹度棄てやしないよ。……僕より君の方が棄てないか?」と、言ったが、真実《ほんとう》に腹
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