から「棄てないで下さい!」と言うのならば、思い切って、何うかして下さい、とでも、も少し打明けて相談をし掛けないのであろうと、それを効《かい》なく思っていた。
 そういうと、女は黙っていた。また以前《もと》の通り何処に心があるのやら分らなかった。するとまた暫く経って、「定ったらあなたに手紙を上げますから、そうしたら何うかして下さいな。」とそう言う。此度は此方で「うむ!」と気のない返事をした。
 戸外《そと》は日が明るく照って、近所から、チーン、チーンと鍜冶の槌の音が強く耳に響いて来る。何処か少し遠い処で地を揺《ゆす》るような機械の音がする。今朝は何だか湿りっ気がない。
 勘定が大分|嵩《かさ》んだろう。……斯う長く居るつもりではなかったから、固より持合せは少かった。私は突然《だしぬけ》に好い夢を破られた失望の感と共に、少しでも勘定が不足になるのが気になって、そうしていながらも、些《ちっ》とも面白くなかった。私にはまだ自分で待合で勘定を借りた経験はなかった。お宮を早く帰せば銭《かね》も嵩まないと分っていたが、それは出来なかった。又仮令これ限《き》りお宮を見なくなるにしてもお宮のいる前で勘定の不足をするのは尚お堪えられなかった。そう思って先刻《さっき》から、一人で神経を悩ましていたが、ふっと、今日は、長田《おさだ》が社に出る日だ、彼処《あすこ》に使いを遣って、今日は最う十七日だから、今月書いた今までの分を借りよう。――それはお前も知っている通りに、始終《しょっちゅう》行《や》っていたことだ。――と、そう気が付いて、手紙の裏には「牛込区喜久井町、雪岡」と書いて車夫《つかい》に、彼方《あちら》に行ってから、若しも何処から来たと聞かれても、牛込から来た、と言わしてくれと女中に頼んだ。
 暫時《しばらく》して車夫は帰って来たが、急いで封を切って見ると、銭は入っていなくって唯、
「主筆も編輯長もまだ出社せねば、その金は渡すこと相成りがたく候。」
 と、長田の例《いつも》の乱筆で、汚い新聞社の原稿紙に、いかにも素気《そっけ》なく書いてある。私は、それを見ると、銭の入っていない失望と同時に「はっ」と胸を打たれた。成程|使者《つかい》が丁度向に行った頃が十二時時分であったろうから、主筆も編輯長もまだ出社せぬというのは、そうであろう。が、「その金は渡すこと相成り難く候。」とあるのは可怪《おかし》い。長田の編輯している日曜附録に、つまらぬことを書かして貰って僅かばかりの原稿料を、併も銭に困って、一度に、月末まで待てないで、二度に割《さ》いたりなどして受取っているのだが、分けても此の頃は種々《いろん》なことが心の面白くないことばかりで、それすら碌々に書いてもいない。けれども前借をと言えば、仮《よ》し自分が出社せぬ日であっても、これまで何時も主筆か編輯長に当てゝ幾許《いくら》の銭を雪岡に渡すように、と、長田の手紙を持ってさえ行けば、私に直ぐ受取れるように、兎に角気軽にしてくれている。然るに、仮令銭は渡せない分とも、その銭は渡すことならぬ、というその銭は、何ういうつもりで書いたのだろう? 自分は平常《ふだん》懶惰者《なまけもの》で通っている。お雪を初めその母親《おや》や兄すらも、最初こそ二足も三足も譲っていたものだが、それすら後には向からあの通り遂々《とうとう》愛想を尽かして了った。幾許自分にしても傍《はた》で見ているように理由《わけ》もなく、只々懶けるのでもないが、成程懶けているに違いない。長田は国も同じければ、学校も同時に出、また為《し》ている職業も略《ほ》ぼ似ている。それ故此の東京にいる知人の中でも長田は最も古い知人で、自分の古い頃のことから、つい近頃のことまで、長田が自分で観、また此方から一寸々々《ちょいちょい》話しただけのことは知っている。長田の心では雪岡はまた女に凝っている、あの通り、長い間一緒にいた女とも有耶無耶《うやむや》に別れて了って、段々詰らん坊になり下っている癖に、またしても、女道楽でもあるまい、と、少しは見せしめの為にその銭は渡すこと相ならぬ、という積りなのであろうか。それならば難有い訳だ。が、否《いな》! あの人間の平常《ふだん》から考えて見ても、他人《ひと》の事に立入った忠告がましいことや、口を利いたりなどする長田ではない。して見れば、此の、その銭は渡されぬという簡単な文句には、あの先達ての様子といい、長田の性質が歴然《ありあり》と出ている。これまでとても、随分向側に廻って、小蔭から種々な事に、ちびり/\邪魔をされたのが、あれにあれに、あれと眼に見えるように心に残っている。此度はまた淫売のことで崇られるかな、と平常は忘れている、其様《そん》なことが一時に念頭に上って自分をば取着く島もなく突き離されたその上に、まだ石を打付《ぶッつ》
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