っても出るし、それから神保町の東京堂の店員になって出ていたこともある。……博覧会に出ていた時なんか、暑うい時分に、私は朝早くから起きて、自分で御飯を炊いて、私が一日《いちんち》居なくっても好いようにして出て行く。その後で、晩に遅くなって帰って見ると、家では、朝から酒ばッかり飲んで、何にもしないでいるんですもの。……」
「酒飲みじゃ仕様がない。……酒乱だな。」
「えゝ酒乱なの、だから私、斯様《こん》な処にいても、酒を飲む人は嫌い。……湯島天神に家を持っていたんですが、私、一と頃生傷が絶えたことがなかった。……そんな風だから、私の方でも、終には、『あゝもう厭だ。』と思って、何か気に入らぬことがあると此方でも負けずに言うでしょう。そうすると『貴様俺に向って何言うんだ。』と言って、煙管《きせる》で撲つ、ビールの空瓶で打《ぶ》つ、煙草盆を投げ付ける。……その煙草盆を投げ付けた時であった。その時の傷がまだ残っているんです。此処に小《ちさ》い痣《あざ》が出来ているでしょう。痣なんか、私にゃありゃしなかった。」と、言って、白い顔の柔和な眉毛の下を遺恨《うらみ》のあるように、軽く指尖で抑えて見せた。それは、あるか、無いかの淡青い痣の痕であった。
私は黙ってお宮の言うのを聞きながら、静《そっ》と其の姿態《ようす》を見|戍《まも》って、成程段々聞いていれば、何うも賢い女だ。標致《きりょう》だって、他人《ひと》には何うだか、自分にはまず気に入った。これが、まだそんな十七や八の若い身で元は皆心がらとはいいながら、男の為に、真実《ほんとう》にそういう所帯の苦労をしたかと思えば、唯いじらしくもある。自分で気にするほどでもないが、痣の痕を見れば、寧《いっ》そ其れがしおらしくも見える。私は、「おゝ」と言って抱いてやりたい気になって、
「ふむ……それは感心なことだが、併しそれほど心掛の好い人が何うして、とゞの詰り斯ういう処へ来るようになったんだろうねえ?」
と、またころりと横になりながら、心からそう思って、余りうるさく訊くのも、却って女の痛心《こころ》に対して察しの無いことだから、さも余処《よそ》の女のことのように言ってまたしても斯う尋ねて見た。そうして、つい身につまされて、先刻《さっき》からお宮の話を聞きながらも、私は自分とお前とのことに、また熟※[#二の字点、1−2−22]《つくづく》と思入っていた。「お雪の奴、いま頃は何処に何うしているだろう? 本当に既《も》う嫁《かたづ》いているか。嫁いていなければ好いが、嫁いて居ると思えば心元なくてならぬ。最後《のち》には自分から私《ひと》を振切って行って了ったのだ。それを思えば憎い。が、元を思えば、皆《みん》な此方《こちら》が苦労をさしたからだ。あゝ、悪いことをした。彼女《あれ》も行末は何うなる身の上だろう? 浅間しくなって果てるのではなかろうか?」としみ/″\と哀れになって、斯うして静《じっ》としてはいられないような気がして来て、しばらくは、私達が丁度お宮等二人のように思われていたが、「いや/\お雪が、お宮と同じであろう道理が無い。自分がまた吉村であろう筈もない。私に、何うして斯ういう女を、終に斯様な処に来なければならぬようにするような、そんな無惨なことが出来よう!」と、私は少しく我れに返って、
「けれども其の人間も随分|非道《ひど》いねえ。そんなにして何処までも、今まで通りに夫婦《いっしょ》になっていてくれというほどならば、何故、宮ちゃんが其様なにして尽している間に、少しはお前を可愛いとは思わなかったろうねえ? お前が可愛ければ、自分でも確乎《しっかり》せねばならぬ筈だ。況《ま》して自分が初めて手を付けた若い女じゃないか!」と、人の事を全然《まるで》自分を責めるように、そう言った。
お宮はお宮で、先刻《さっき》から黙って、独りで自分の事を考え沈んでいたようであったが、
「ですから私、何度逃げ出したか知れやしない。……その度毎に追掛けて来て捉《つかま》えて放さないんだもの……はあッ! 一昨日《おととい》からまた其の事で、彼方《あっち》此方《こっち》していた。」と、またしても太息《ためいき》ばかり吐《つ》いて、屈託し切っている。私には其大学生の江馬と吉村と女との顛末などに就いても、屹度面白い筋があるに違いない、と、それを探るのを一つは楽しくも思いながら、種々《いろいろ》と腹の中で考えて見たが、お宮に対《むか》ってはその上強いては聞こうともしなかった。唯、「で、一昨日は何と言って別れたの?」と訊ねると、
「まあ二三日《にさんち》考えさしてくれと、可い加減なことを言って帰って来た。……ですから、何うしたら好いか、あなたに智慧を借りれば好いの。……」と、其の事に種々心を砕いている所為《せい》かそれとも、唯私に対してそ
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