来ている間はよかったけれど、その内学校を卒業するでしょう。卒業してから学資がぴったり来なくなってから困って了って、それから何することも出来なくなったの。」
「だって可笑いなあ。君がいうように、本当に師範学校に行っていて卒業したのなら、高等の方だとすると、立派なものだ。そんな人が、何故自分の手を付けた若い娘を終《しまい》に斯様《こん》な処に来なければならぬようにするか。……十五で出て来て間もなくというんだから、男を知ったのもその人が屹度初めだろう?」
「えゝ、そりゃ其の人に処女膜を破られたの。」と、それを取返しの付かぬことに思っているらしい。
「はゝゝゝ。面白いことを言うねえ。もし尋常師範ならば、成程国で卒業して、東京に出てから、ぐれるということもあるかも知れぬが、今二十九で、五年も前からだというから、年を積っても可笑しい。師範学校じゃなかろう。……お前の言うことは何うも分らない。……けれど、まあ其様《そん》な根掘り葉掘り聞く必要はないわねえ。……で、一昨日《おととい》は何うして此処に来ていることが分ったの?」
「下谷に知った家があって、其処から一昨日は電話が掛かって、一寸《ちょいと》私に来てくれと言うから、何かと思って行くと、其処に吉村が、ちゃんと来ているの。それを見ると、私ははあッと思って本当にぞっとして了った。」
「ふむ。それで何うした?」
「私は黙あッていてやった。そうすると、『何うして黙っている? お前は非道《ひど》い奴だ。俺を一体何と思っている? 殺して了うぞ。』と、恐ろしい権幕で言うから、『何と思っているッて、あなたこそ私を何と思っている?』と私も強く言ってやった。此方《こちら》でそう言うと、此度は向から優しく出るの。そうして何卒《どうぞ》これまでのようになっていてくれというの。……私は、『厭だ!』と言ってやった。其様なことを言うんなら、私は今此処で本当に殺してくれと言ってやった。……悪い奴なの。」と、さも/\悪者のように言う。
「そういうと、何う言った?」
「けれども、何うもすることは出来ないの、……元は屡《よ》く私を撲ったもんだが、それでも、此度は余程弱っていると思われて、何うもしなかった。」お宮は終《しまい》を独語《ひとりごと》のように言った。
「何うして分ったろうねえ? お前が此処にいるのが。」
「其処が才子なの。私本当に恐ろしくなるわ。方々探しても、何うしても分らなかったから、口髭《ひげ》なんか剃って了って、一寸《ちょいと》見たくらいでは見違えるようにして、私の故郷《くに》に行ったの。そうすると、家の者が、皆口じゃ何処にいるか知らない、と甘《うま》く言ったけれど、田舎者のことだから間が抜けているでしょう。すると、誰れも一寸居ない間に、吉村が状差しを探して見て、その中に私が此処から遣った手紙が見付かったの。よくそう言ってあるのに、本当に田舎者は仕様がない。」
「ふむ。お前の故郷まで行って探した! じゃ余程《よっぽど》深い仲だなあ。……そうして其の人、今何処にいるんだ? 何をしているの?」
「さあ、何処にいるか。其様なこと聞きゃしないさ。……それでも私、後で可哀そうになったから、持っていたお銭《あし》を二三円あったのを、銀貨入れのまゝそっくり遣ったよ。煙草なんかだって、悪い煙草を吸っているんだもの。……くれて遣ったよ。私。」と、ホッと息を吐いて、後は萎れて、しばらく黙っている。
「身装《なり》なんか、何様な風をしている?」
「そりゃ汚い身装をしているさ」
「どうも私には、まだ十分解らない処があるが、余程深い理由《わけ》があるらしい。宮ちゃんも少し何うかして上げれば好い。」
「何うかしてあげれば好いって、何うすることも出来やしない。際限《きり》がないんだもの。」と、お宮は、怒るように言ったが、「私もその人の為にはこれまで尽せるだけは尽しているの。初め此方《こっち》が世話になったのは、既《も》う夙《とっく》に恩は返している。何倍此方が尽しているか知れやしない。……つまり自分でも此の頃漸く、私くらいな女は、何処を探しても無いということが分って来たんでしょうと思うんだ。斯う見えても、私は、本当の心は好いんですから、そりゃ私くらい尽す女は滅多にありゃしないもの。……ですから其の人の心も、他の者には知れなくっても、私にだけは分ることは、よく分っているの。」と、しんみりとなった。
「うむ/\。そうだ。お前の言うことも、私にはよく分っている。……じゃ二人で余程《よっぽど》苦労もしたんだろう。」
「そりゃ苦労も随分した。米の一升買いもするし……私、終《しまい》には月給取って働きに出たよ。」
「へえ、そりゃえらい。何処に?」
「上野に博覧会のあった時に、あの日本橋に山本という葉茶屋があるでしょう。彼処《あすこ》の出店に会計係にな
前へ
次へ
全30ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング