柄、「まことにお気の毒さまねえ、今晩だけ他《ほか》な女《の》をお遊びになっては如何《いかが》です。他にまだ好いのもありますよ。」と言ってくれたが、私はお宮を見付けてから、もう他の女は※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ向いて見る気にもならなかった。
 まだ浅い馴染とはいいながら、それまでは行く度に機会《おり》好く思うように呼べたが、逢いたいと思う女が、そうして他の客に連れられてお酉さまに行った、と聞いては、固より有りうちのことと承知していながらも、流石に好い気持はしなかった。そういう女を思う自分の心を哀れと思うた。
「いや! また来ましょう。」と其家《そこ》を出て、そのまゝ戻ったが、私は女中達に心を見透かされたようで、独りで恥かしかった。さぞ稍然《すごすご》として見えたことであろう。
 戸外《そと》は寒い風が、道路《みち》に、時々軽い砂塵埃《すなぼこり》を捲いていた。その晩は分けて電車の音も冴えて響いた。ましてお酉《とり》さまと、女中などの言うのを聞けば、何となく冬も急がれる心地がする。
「あゝ詰らない/\。斯うして、浮々《うかうか》としていて、自分の行末は何うなるというのであろう?」と、そんなことを取留めもなく考え込んで、もちっとで電車の乗換え場を行き過ぎる処であった。心柄とはいいながら、夜風に吹き曝《さら》されて、私は眼頭に涙を潤《にじ》ませて帰った。
 それでも少しは、何かせねばならぬこともあって、二三日|間《ま》を置いてまた行った。私は電車に乗っている間が毎時《いつ》も待遠しかった。そういう時には時間の経つのを忘れているように面白い雑誌か何か持って乗った。
 その時は三四時間も待たされた。――此間《こないだ》の晩もあるのに、あんまり来ようが遅いから、来たら些《ちょい》と口説《くぜつ》を言ってやろう、それでも最う来るだろうから、一つ寝入った風をしていてやれ、と夜着の襟に顔を隠して自分から寝た気になっても見る。するとそれも、ものの十分間とは我慢しきれないで、またしても顔を出して何度見直したか知れない雑誌を繰披いて見たり、好きもせぬ煙草を無闇に吹かしたり、独りで焦れたり、嬉しがったり、浮かれたりしていた。
 火鉢の佐倉炭が、段々真赤に円くなって、冬の夜ながらも、室《へや》の中は湿《しっ》とりとしている。煙草の烟で上の方はぼんやりと淡青くなって、黒の勝った新らしい模様の友禅メリンスの小さい幕を被《き》せた電灯が朧ろに霞んで見える。
 階下《した》では女中の声も更けた。もう大分前に表の木戸を降したらしい。時々低く電話を鳴してお宮を催促しているようであった。
 やがてすうっと襖が開《あ》いて、衣擦れの音がして、枕頭《まくらもと》の火鉢の傍に黙って坐った。私は独で擽られるような気持になって凝乎《じっ》と堪えて蒲団を被ったまゝでいた。
 女は矢張し黙って軽い太息《ためいき》を洩らしている。
 私は遂々《とうとう》負けて襟から顔を出した。
 女は雲のような束髪《かみ》をしている。何時か西洋の演劇雑誌で見たことのある、西洋《あちら》の女俳優《おんなやくしゃ》のような頭髪《かみ》をしている、と思って私は仰《あおむ》けに寝ながら顔だけ少し横にして、凝乎と微笑《わら》い/\女の姿態《ようす》に見惚れていた。
 壁鼠とでもいうのか、くすんだ地に薄く茶糸《ちゃ》で七宝繋ぎを織り出した例《いつも》のお召の羽織に矢張り之れもお召の沈んだ小豆色《あずきいろ》の派手な矢絣の薄綿を着ていた。
 深夜《よふけ》の、朧に霞んだ電灯の微光《うすあかり》の下《もと》に、私は、それを、何も彼も美しいと見た。
 女は、矢張り黙っている。
「おい! どうしたの?」私は矢張り負けて静かに斯う口を切った。
「どうも遅くなって済みませんでした。」優しく口を利いて、軽く嬌態《しな》をした。
 そう言ったまゝ、後は復《ま》た黙《だま》あって此度は一層強い太息《ためいき》を洩らしながら、それまでは火鉢の縁に翳《かざ》していた両手を懐中《ふところ》に入れて、傍の一閑張りの机にぐッたりと身を凭せかけた。そうして右の掌だけ半分ほど胸の処から覗《のぞか》して、襦袢の襟を抑えた。その指に指輪が光っていた。崩れた膝の間から派手な長襦袢が溢《こぼ》れている。
 女と逢いそめてから、これでまだ四度《よたび》にしかならぬ。それが、其様《そん》な悩んだ風情を見せられるのが初めてなので、それをも、私は嬉しく美しいと自分も黙あって飽かず眺めていた。
 けれども遂々辛抱しきれないで、復た、
「どうしたの?」と重ねて柔しく問うた。すると、女は、
「はあッ」と絶え入るように更に強い太息を吐いて片袖に顔を隠して机の上に俯伏して了った。束髪《かみ》は袖に緩く乱れた。
 私は哀れに嬉しく心元なくなって
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