西洋《むこう》に誂えて取ったものであった。アーサア・シモンズの「七芸術論」、サント・ブーブの「名士と賢婦の画像」などもあった。
私は其等をきちんと前に並べて、独り熟※[#二の字点、1−2−22]《つくづく》と見惚れていた。そうしていると、その中に哲人文士の精神が籠っていて、何とか言っているようにも思われる。或はまた今まで其等が私に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を吐いていたようにも思われる。
私がそんな書籍を買っている間、お前はお勝手口で、三十日《みそか》に借金取の断りばかりしていた。私もまさかそんな書籍を買って来て、書箱《ほんばこ》の中に並べ立てゝ、それを静《じっ》と眺めてさえいれば、それでお前が、私に言って責めるように、「今に良くなるだろう。」と安心しているほどの分らず屋ではなかったが、けれども唯お前と差向ってばかりいたのでは何を目的《あて》に生きているのか、というような気がして、心が寂しい。けれどもそうして書箱に、そんな種々《いろん》な書籍があって、それを時々出して見ていれば、其処に生き効《がい》もあれば、また目的《あて》もあるように思えた。私だとても米代を払う胸算《あて》もなしに、書籍を買うのでもないが、でもそれを読んで、何か書いていれば、「今に良くなるのだろう。」くらいには思わないこともなかった。
これはお宮の髪容姿《かみかたち》と、その厭味のない、知識らしい気高い「ライフ・オブ・リーゾン」や「アミイルの日記」などと比べて見て初めて気の付いたことでもない。
いや、お前に「私もよもやに引かされて、今にあなたが良くなるだろう、今に良くなるだろうと思っていても、何時まで経ってもよくならないのだもの。」と口に出して言われる以前から自分にも分っていた。「良くなる。」というのは、何が良くなるのだろう? 私には「良くなる。」ということが、よく分っているようで、考えて見れば見るほど分らなくなって来た。
私は一度は手を振上げて其の本に「何だ、馬鹿野郎!」と、拳固を入れた。けれども果して書籍《ほん》に入れたのやら、それとも私自身に入れたのやら、分らなくなった。
私は、ハッとなって、振返って、四辺《あたり》を見廻した。けれども幸い誰れもいなかった。固《もと》より誰れもいよう筈はない。
身体は自家にいながら、魂魄《こころ》は宙に迷うていた。お宮を遊びに来さす為には家を変りたいと思ったが、お前のこと、過去《これまで》のことを思えば、無惨《むざ》と、此処を余処《わき》へ行く事も出来ない。お母さんの顔には日の経つごとに「何時までいるつもりだ。さッ/\と出て行け!」という色が、一日一日と濃く読めた。またそれを口に出して言いもした。私も無理はないと知っていた。そうでなくてさえ況《ま》して年を取った親心には、可愛い生《うみ》の娘に長い間、苦労をさした男は、訳もなく唯、仇敵《かたき》よりも憎い。お母さんで見れば、私と別れたからと言って、そんならお前を何うしようというのではない。唯|暫時《しばらく》でも傍へ置いときさえすれば好い。それが仇敵がそうしている為に、娘を傍に置くことが出来ないばかりではない、自分で仇敵に朝晩の世話までしてやらなければならぬ。老母《としより》に取っては、それほど逆《さか》さまなことはない。
けれども、私の腹では、仮令お前はいなくっても、此家《ここ》に斯うしていれば、まだ何処か縁が繋がっているようにも思われる。出て了えば、此度こそ最早《もう》それきりの縁だ。それゆえイザとなっては、思い切って出ることも出来ない。そうしていて、たゞ一寸《いっすん》逃れにお宮の処に行っていたかった。
四度目であったか――火影《ほかげ》の暗い座敷に、独り机によっていたら、引入れられるように自分のこと、お前のこと、またお宮のことが思われて、堪《こら》えられなくなった。お宮には、銭《かね》さえあれば直ぐにも逢える。逢っている間は他の事は何も彼も忘れている。私は何うしようかと思って、立上った。立上って考えていると、もうそのまま坐るのも怠儀になる。私は少し遅れてから出掛けた。
桜木に行くと、女中が例《いつも》の通り愛想よく出迎えたが、上ると、気の毒そうな顔をして、「先刻《さっき》、沢村から、電話でねえ。あなたがいらっしゃるという電話でしたけれど、他の者の知らない間に主婦《おかみ》さんが、もう一昨日《おととい》から断られないお客様にお約束を受けていて、つい今、お酉《とり》さまに連れられて行ったから、今晩は遅くなりましょうッて。あなたがいらしったら、一寸《ちょいと》電話口まで出て戴きたいって、そう言って来ているんですが。……」
私は、そうかと言って電話に出たが、固《もと》より「えゝ/\。」と言うより仕方がなかった。
女中は、商売
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