少し永く此の心持を続けていたいような気がして浮々《うかうか》と来合せた電車に乗って遊びに行きつけた新聞社に行って見た。
 長田《おさだ》は旅行《たび》に出ていなかったが、上田や村田と一しきり話をして、自家《うち》に戻った。お宮が昨夜《ゆうべ》あなたの処へ遊びに行くと言った。それには自家を変らねばならぬ。変るには銭《かね》が入る。何うして銭を拵えようかと、そんなことを考えながら戻った。
 それから二三日して長田の家《ところ》に遊びに行くと、長田が――よく子供が歯を出してイーということをする、丁度そのイーをしたような心持のする険しい顔を一寸して、
「此間桜木に行ったら、『此の頃|屡《よ》くいらっしゃいます。泊ったりしていらっしゃいます。』……お宮というのを呼んだと言っていた。……僕は泊ったりすることはないが、……お宮というのは何様《どん》な女《の》か、僕は知らないが、……」
 その言葉が、私の胸には自分が泊らないのに、何うして泊った? 自分がまだ知らない女を何うして呼んだ? と言っているように響いた。私は苦笑しながら黙っていた。長田は言葉を統けて、
「此間《こないだ》社に来て、昨夜《ゆうべ》耽溺をして来た、と言っていたと聞いたから、はあ此奴《こいつ》は屹度桜木に行ったなと思ったから、直ぐ行って聞いて見てやった。」笑いながら嘲弄するように言った。
 私は、返事の仕様がないような気がして、
「うむ……お宮というんだが、君は知らないのか……。」と下手《したで》に出た。
 他の女ならば何でもないが、此のお宮とのことだけは誰れにも知られたくなかった。尤も平常《ふだん》から聞いて知っている長田の遊び振りでは或は夙《とっく》にお宮という女のいることは知っているんだが、長田のこととてつい何でもなく通り過ぎて了ったのかとも思っていた。……初めてお宮に会った時にもう其様《そん》なことが胸に浮んでいた。それが今、長田の言うのを聞けば、長田は知っていなかった。知っていなかったとすれば尚おのこと、知られたくなかったのだが、既《も》う斯う突き止められた上に、悪戯《いたずら》で岡妬《おかや》きの強い人間と来ているから、此の形勢では早晩《いずれ》何とか為《せ》ずにはいまい。もしそうされたって「売り物、買い物」それを差止める権利は毛頭無い。また多寡がああいう商売の女を長田と張合ったとあっては、自分でも野暮臭くって厭だ。もし他人《ひと》に聞かれでもすると一層|外聞《ざま》が悪い。此処は一つ観念の眼を瞑《ねむ》って、長田の心で、なろうようにならして置くより他はないと思った。
 が、そうは思ったものの、自分の今の場合、折角探しあてた宝をむざ/\他人に遊ばれるのは身を斬られるように痛《つら》い。と言って、「後生だ。何うもしないで置いてくれ。」と口に出して頼まれもしないし、頼めば、長田のことだから、一層悪く出て悪戯をしながら、黙っているくらいのことだ。
 と、私はお宮ゆえに種々《いろいろ》心を砕きながら、自家《うち》に戻った。此の心をお宮に知らす術《すべ》はないかと思った。
 取留めもなく、唯自家で沈み込んでいた時分には、何うかして心の間切《まぎ》れるように好きな女でも見付かったならば、意気も揚るであろう。そうしたら自然に読み書きをする気にもなるだろう。読み書きをするのが、何うでも自分の職業とあれば、それを勉強せねば身が立たぬ、と思っていた。すると女は兎も角も見付かった。けれども見付かると同時に、此度はまた新らしい不安心が湧いて来た。しばらく寂しく沈んでいた心が一方に向って強く動き出したと思ったら、それが楽しいながらも苦しくなって来た。
 女からは初めて、心を惹くような、悲しんで訴えるような、気取った手紙を寄越した。私の心は何も彼も忘れて了って、唯|其方《そっち》の方に迷うていた。
 銭がなければ女の顔を見ることが出来ない。が、その銭を拵える心の努力《はげみ》は決して容易ではなかった。――辛抱して銭を拵える間が待たれなかったのだ。
 そうする内に箱根から荷物が届いた。長く彼方《あちら》にいるつもりであったから、その中には、私に取って何よりも大切な書籍《ほん》もあった。之ばかりは何様《どん》なことがあっても売るまいと思っていたが、お宮の顔を見る為に、それも売って惜しくないようになった。
 厭味のない紺青《こんじょう》の、サンタヤナのライフ・オブ・リーゾンは五冊揃っていた。此の夏それを丸善から買って抱えて帰る時には、電車の中でも紙包《つつみ》を披《ひら》いて見た、オリーブ表紙のサイモンヅの「伊太利《イタリー》紀行」の三冊は、十幾年来憧れていて、それも此の春漸く手に入ったものであった。座右に放さなかった「アミイルの日記」と、サイモンヅの訳したベンベニュトオ・チェリニーの自叙伝とは
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