来た。
 戸外《そと》を更けた新内の流しが通って行った。
「おい! 本当に何うかしたの?」私は三度《みたび》問うた。
 すると尚お暫時《しばらく》経って、女は、
「ほうッ」と、一つ深あい呼吸《いき》をして、疲れたようにそうッと顔を上げて、此度はさも思い余ったように胸元《むね》をがっくりと落して、頸を肩の上に投げたまゝ味気なさそうに、目的《あて》もなく畳の方を見詰めて居た。矢張り両手を懐中にして。
 私は何処までも凝乎とそれを見ていた。
 平常《いつも》はあまり眼に立たぬほどの切れの浅い二重瞼が少し逆上《ぼっ》となって赤く際だってしおれて見えた。睫毛が長く眸《め》を霞めている。
「何うしたい!」四度目《よたびめ》には気軽く訊ねた。「散々|私《ひと》を待たして置いて来る早々沈んで了って。何で其様な気の揉めることがあるの? 好い情人《ひと》でも何うかしたの?」
「遅くなったって私が故意に遅くしたのじゃないし。ですから、済みませんでした、と謝っているじゃありませんか。早く来ないと言ったって、方々都合が好いように行きゃしない。……はあッ、私もう斯様《こん》な商売するのが厭になった。……」うるさそうに言った。
 それまでは、機会《おり》に依っては、何処かつんと思い揚って、取澄ましているかと思えば、また甚《ひど》く慎《つつまし》やかで、愛想もそう悪くはなかったが、今夜は余程思い余ったことがあるらしく、心が悩めば悩むほど、放埒《わがまま》な感情がぴり/\と苛立って、人を人臭いとも思わぬような、自暴自棄《すてばち》な気性を見せて来た。
 その時私はます/\「こりゃ好い女を見付けた。此の先きどうか自分の持物にして、モデルにもしたい。」と腹で考えた。そう思うと尚お女が愛《お》しくなって、一層声を和げて賺《すか》すように、
「……何を言ってる? 君が早く来ないと言ってそれを何とも言ってやしないじゃないか。見給え! 斯うして温順《おとな》しく書籍《ほん》を読んで待っていたじゃないか。……戸外はさぞ寒かったろう。さッ、入ってお寝!」
「本当に済みませんでしたねえ、随分待ったでしょう。」此方《こちら》に顔を見せて微笑《え》んだ。
「さあ/\そんなことは何うでも好いわ……。」けれどもそれは女の耳に入らぬようであった。
「はあッ……私、困ったことが出来たの。」声も絶え/″\に言った。
「困った。……何うしよう? ……言って了おうか。」と一寸《ちょいと》小首を傾けたが、「言おうかなあ……言わないで置こうかッ。」と一つ舌打ちをして、「言ったら、さぞあなたが愛想を尽かすだろうなあ!」と独りで思案にくれて、とつおいつしている。私は、やゝ心元なくなって来た。
「何うしたの? ……私が愛想を尽かすようなことッて。何か知らぬが、差支えなければ言って見たら好いじゃないか。」私はその時|些《ちょっ》と胸に浮んだので、「はあ! じゃ分った! 私の知った人でも遊びに来たの?」と続けて訊いた。
「否《う》む!」と頭振《かぶり》を掉った。私も幾許《いくら》何でもまさか其様なことは無いであろうと思っていたが、あんまり心配そうに言うので、もし其様なことででもあるのかと思ったがそうでなくって、先ずそれは安心した。
「じゃ何だね? 待たして焦らしてさ! 尚おその上に唯困ったことがある、困ったことがある。……と言っていたのでは私も斯うしていれば気に掛かるじゃないか。役に立つようだったら、私も一緒に心配しようじゃないか。……何様《どん》なこと?」
「はあッ」と、まだ太息《ためいき》を吐いている。「じゃ思い切って言って了おうかなあ! ……あなたが屹度愛想を尽かすよ。……尽かさない?」うるさく訊く。
「何様《どん》なことか知らぬが尽かしゃしないよ、僕は君というものが好いんだから仮令これまでに如何《どん》なことをしていようとも何様な素姓であろうとも差支えないじゃないか。それより早く言って聞かしてくれ。宵からそう何や彼《か》に焦らされていては私の身も耐らない。」と言いは言ったが、腹では本当に拠《たよ》りない心持がして来た。
「じゃ屹度愛想尽かさない?」
「大丈夫!」
「じゃ言う! ……私には情夫《おとこ》があるの!」
「へえッ……今?」
「今……」
「何時から?」
「以前《もと》から!」
「以前から? じゃ法科大学の学生《ひと》の処に行っていたというのはあれは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]?」私もまさかとは思っていたが、それでも少しは本当もあると思っていた。
「それもそうなの。けれどまだ其の前からあったの。」
「その前からあった! それは何様な人?」
 先刻《さっき》から一人で浮かれていた私は、真面目に心細くなって来た。そうして腹の中で、斯ういう境涯の女にはよくあり勝ちな、悪足《わるあ
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