から、早く出て戻った。
 自家《うち》に戻ると、日の短い最中だから、四時頃からもう暗くなったが、何をする気にもなれず、また矢張り机に凭《よ》って掌に額を支えたまゝ静《じっ》としていると、段々気が滅入り込むようで、何か確乎《しっかり》としたものにでも執り付いていなければ、何処かへ奪《さら》われて行きそうだ。そうして薄暗くなって行く室《へや》の中では、頭の中に、お宮の、初めて逢った晩のあの驚くように長く続いた痙攣。深夜《よふけ》の朧に霞んだ電灯の微光《うすあかり》の下《もと》に惜気もなく露出して、任せた柔い真白い胸もと。それから今朝「精神的に接するわ」と言った、あの時のこと、その他折によって、種々《いろいろ》に変って、此方《こちら》の眼に映った眉毛、目元口付、むっちりとした白い掌先《てさき》、くゝれの出来た手首などが明歴《ありあり》と浮き上って忘れられない。……それが最早《もう》居なくなって了うのだと思うと、尚お明らかに眼に残る。
 私は、何うかして、此の寂しく廃《すた》れたような心持を、少しでも陽気に引立てる工夫はないものか、と考えながら何の気なく、其処にあった新聞を取上げて見ていると、有楽座で今晩丁度呂昇の「新口村《にのくちむら》」がある。これは好いものがある。これなりと聞きに行こう、と、八時を過ぎてから出掛けた。
 そういうようにして、お宮に夢中になっていたから、勝手に付けては、殆ど毎日のように行っていた矢来の婆さんの家《ところ》へは此の十日ばかりというもの、パッタリと忘れたように、足踏みしなかったが、お宮がいなくなって見ると、また矢張り婆さんの家が恋しくなって、久振りに行って見た。婆さんは何時も根好く状袋を張っていたが、例《いつも》の優しい声で、
「おや、雪岡さん、何うなさいました? 此の頃はチットもお顔をお見せなさいませんなあ。何処かお加減でも悪いのかと思って、おばさんは心配していましたよ。」と言いながら、眼鏡越しに私を見戍って、「雪岡さん、頭髪《かみ》なんかつんで、大層綺麗におめかしして。」と、尚お私の方を見て微笑《わら》っている。
「えゝ暫時御無沙汰をしていました。」
 と言っていると、
「雪岡さん。あなた既《も》う好い情婦《おんな》が出来たんですってねえ。大層早く拵えてねえ。」と、あの婆さんのことだから、言葉に情愛を付けて面白く言う。私は、ハテ不思議だ、
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