びに来さす為には家を変りたいと思ったが、お前のこと、過去《これまで》のことを思えば、無惨《むざ》と、此処を余処《わき》へ行く事も出来ない。お母さんの顔には日の経つごとに「何時までいるつもりだ。さッ/\と出て行け!」という色が、一日一日と濃く読めた。またそれを口に出して言いもした。私も無理はないと知っていた。そうでなくてさえ況《ま》して年を取った親心には、可愛い生《うみ》の娘に長い間、苦労をさした男は、訳もなく唯、仇敵《かたき》よりも憎い。お母さんで見れば、私と別れたからと言って、そんならお前を何うしようというのではない。唯|暫時《しばらく》でも傍へ置いときさえすれば好い。それが仇敵がそうしている為に、娘を傍に置くことが出来ないばかりではない、自分で仇敵に朝晩の世話までしてやらなければならぬ。老母《としより》に取っては、それほど逆《さか》さまなことはない。
 けれども、私の腹では、仮令お前はいなくっても、此家《ここ》に斯うしていれば、まだ何処か縁が繋がっているようにも思われる。出て了えば、此度こそ最早《もう》それきりの縁だ。それゆえイザとなっては、思い切って出ることも出来ない。そうしていて、たゞ一寸《いっすん》逃れにお宮の処に行っていたかった。
 四度目であったか――火影《ほかげ》の暗い座敷に、独り机によっていたら、引入れられるように自分のこと、お前のこと、またお宮のことが思われて、堪《こら》えられなくなった。お宮には、銭《かね》さえあれば直ぐにも逢える。逢っている間は他の事は何も彼も忘れている。私は何うしようかと思って、立上った。立上って考えていると、もうそのまま坐るのも怠儀になる。私は少し遅れてから出掛けた。
 桜木に行くと、女中が例《いつも》の通り愛想よく出迎えたが、上ると、気の毒そうな顔をして、「先刻《さっき》、沢村から、電話でねえ。あなたがいらっしゃるという電話でしたけれど、他の者の知らない間に主婦《おかみ》さんが、もう一昨日《おととい》から断られないお客様にお約束を受けていて、つい今、お酉《とり》さまに連れられて行ったから、今晩は遅くなりましょうッて。あなたがいらしったら、一寸《ちょいと》電話口まで出て戴きたいって、そう言って来ているんですが。……」
 私は、そうかと言って電話に出たが、固《もと》より「えゝ/\。」と言うより仕方がなかった。
 女中は、商売
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