その女の方で何処までも付いていて離れないんでしょう――私の方だって、ですから怒ろうたって怒られやしない。気の毒で可哀そうになったわ。――でも細君があると知れてから、随分|捫《も》んで苛《いじ》めてやった。」
 人を傍に置いていて、そう言って独りで忘れられない、楽しい追憶《おもいで》に耽っているようであった。私は静《じっ》と聞いていて、馬鹿にされているような気がしたが、自分もその大学生のように想われて、そうして苛められるだけ、苛められて見たくなった。
 その男は高等官になって、名古屋に行っていると言った。江馬と言って段々遠慮がなくなるにつれて、何につけ「江馬さん/\。」と言っていた。
 それのみならず、大学生に馴染《なじみ》があるとか、あったとかいうのが此の女の誇で、後《あと》になっても屡《よ》く「角帽姿はまた好いんだもの。」と口に水の溜まるような調子で言い/\した。
 すると、お宮は暫時《しばらく》して、フッと顔を此方《こっち》に向けて、
「あなた、本当に奥様《おくさん》は無いの?」
「あゝ」
「本当に無いの?」
「本当に無いんだよ。」
「男というものは真個《ほんとう》に可笑いよ。細君があれば、あると言って了ったら好さそうなものに此方で、『あなた、奥様があって?』と聞くと、大抵の人があっても無いというよ。」
「じゃ私も有っても無いと言っているように思われるかい?」
「何うだか分らない。」人の顔を探るように見て言った。
「僕、本当はねえ、あったんだけれど、今は無いの。」
「そうら……本当に?」女はにや/\笑いながら、油断なく私の顔を見戍《みまも》った。
「本当だとも。有ったんだけれど、別れたのさ。……薄情に別れられたのさ。……一人で気楽だよ。……同情してくれ給え! 衣類《きもの》だって、あれ、あの通り綻びだらけじゃないか。」
「それで今、その女《ひと》は何うしているの?」お宮の瞳《め》が冴えて、両頬《ほお》に少し熱を潮《さ》して来た。
「さあ、別れたッきり、自家《うち》にいるか何うしているか、行先なんか知らないさ。」
「本当に? ……何時別れたんです? ……ちゃんと分るように仰しゃい! 法学者の処にいたから、曖昧な事を言うと、すぐ弱点を抑えるから。……何うして別れたんです?」気味悪そうに聞いた。
「種々《いろいろ》一緒にいられない理由《わけ》があって別れたんだが、最早
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