えた。
 私は可笑くなって此方《こっち》も暫く黙っていた。けれども、私はそんなにして黙っているのが嫌いだから、
「そんな風をしないでもっと此方《こっち》においで。」と言った。
 待っている間、机の上に置いてあった硯箱を明けて、巻紙に徒《いたず》ら書きをしていた処であったから机の向《むこう》に来ると、
「宮ちゃん、之れに字を書いて御覧。」
「えゝ書きます。何を?」
「何とでも可いから。」
「何かあなたそう言って下さい。」
「私が言わないったって、君が考えて何か書いたら可いだろう。」
「でもあなた言って下さい。」
「じゃ宮とでも何とでも。」
「……私書けない。」
「書けないことはなかろう、書いてごらん。」
「あなた神経質ねえ。私そんな神経質の人嫌い!」
「…………。」
「分っているから、……あなたのお考えは。あなた私に字を書かして見て何うするつもりか、ちゃんと分っているわ。ですから、後で手紙を上げますよ。あゝ私あなたに済まないことをしたの。名刺を貰ったのを、つい無くして了った。けれど住所《ところ》はちゃんと憶えています。……××区××町××番地雪岡京太郎というんでしょう。」
 斯様《こん》なことを言った。私に字を書かして見て何うするつもりかあなたの心は分っています、なんて自惚《うぬぼれ》も強い女だった。
 その晩、待合《うち》の湯に入った。「お前、前《さき》入っておいで。」と言って置いて可い加減な時分に後から行った。緋縮緬の長い蹴出しであった。
 尚お他の室《へや》に行ってから、
「宮ちゃん、お前斯ういう処へ来る前に何処か嫁《かたづ》いていたことでもあるの?」
 と、具合よく聞いて見た。
「えゝ、一度行っていたことがあるの。」と問いに応ずるように返事をした。
 日毎、夜毎に種々《いろん》な男に会う女と知りながら、また何れ前世のあることとは察していながら、私は自分で勝手に尋ねて置いて、それに就いてした返事を聞いて少し嫉《ねた》ましくなって来た。
「何ういう人の処へ行っていたの?」
「大学生の処へ行っていたの。……卒業前の法科大学生の処へ行っていたんです。」
 私は腹の中で、「へッ! 甘《うま》いことを言っている。成程本郷の女学校に行っていた、というから、もしそうだとすれば、何うせ野合者《くっつきもの》だ。そうでなければ生計《くら》しかねて、母子《おやこ》相談での内職か。」
前へ 次へ
全59ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング