に、一山|闃《げき》として、氣爽かに、心自から澄み、神冴え何を思うてみても、それが何處までゞも深くふかく考へることが出來る。東京にゐたならば僅かに四町か五町の道を歩いても脚よりも先づ神經の方が四圍の物のために疲れを感ずるのに、山の中では嘗てそんな憂ひはない。私は例の櫻のステッキを杖つきながら、松林から吐き出す強いオゾンの香を呼吸して、細徑を穿つて歩いてゆく、段々下へゆくにつれて、今まで自分と同じ高さにゐた笛塚山、鷹巣山は次第に高くたかくなり、近くから見ると平凡であつた山の形もそれとゝもに何かしら尊い威容を備へて頭の上から臨んでゐる。笛塚山は後三年の役に、新羅三郎義光が、兄の義家が清原武衡と戰ひ利あらざるを聞き、己れの官職を辭して遠く奧州の地に赴き援けんとする時、義光が笙の師豐原時元の子時秋が、乃父の祕曲を傳へてゐる義光の後を迫ふて足柄山に到り、一夜明月の下に山上に楯を布いて坐し、笙を吹奏して祕曲を授かつた。その古跡として傳へられてゐるところである。果してその笛塚山が楯を布いた跡かどうかは知らないが、笛塚といはれてゐる處には大きな岩石が重なり合つてゐて上が三疊敷ぐらゐに平つたくなつてゐる
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