箱根の山々
近松秋江

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)短艇《ボート》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一山|闃《げき》として

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) 
(例)※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶら/\歩いて
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 夏が來て、また山の地方を懷かしむ感情が自然に私の胸に慘んでくるのを覺える。何といつても山を樂しむのは夏のことである。曾遊の夏の山水風光を、かうして今都會の中にゐて追憶して見るさへ懷かしさに堪へないで、魂飛び神往くの思ひがするのである。
 日光の奧中禪寺湖の短艇《ボート》の上で遠く仰望した男體山の雄姿。そこからまだ三里の山奧を巡つて入つていつた湯の湖の畔、自然がいかなる妙技を以つて作り成したかと思はれる人工その物の如き庭園の草樹を分けて流れる潺流の美、盛夏八月既に秋冷を感ずる湯元の浴舍の座敷から眞青な夏草に被はれた前白根の清らかな色を眺めた時、又はその前白根の突兀たる頂邊に夕月の輝きそめる宵、晩涼に乘じて古い神話の中にでもありさうな幽暗なる湯の湖の上に輕舟を操りながら、まるで魔界の巨人の如き男體山の肩背の桔梗色に黄昏れてゆくその崇嚴な美に見惚れた時、いづれか私の自然に對する感情を騷がさしめぬものはない。けれどその美しい日光の山の湖水の色も、私の弱い心には徃々にして唯美しいといふよりは寧ろ不可思議な、そして怖しい自然となつて威壓を加へるかのごとく映ずることがある。それに比べると箱根は、日光のごとき崇拜の感じには乏しいけれど、一層の安らかさを感ずる。靜に心を落着け、病弱の體を休息せしめようとするには箱根の方が好ましい。
 私は去年の夏の半ばから秋の始めへかけて二た月ばかり箱根にいつてゐた時分のことを今そゞろに想ひ起してゐる。その年は六月の末からかけて七月一ぱい八月の初十日ごろまで息をも次がさぬほどの炎暑で、東京などでは屋敷の隅に生えた桃の若木のやうな草木などはあまりの日照りに枯死してしまふ有樣であつた。私はその八月の十日に立つて箱根にいつた。私がゆくと二三日して、がらりと天候が一變して、連日駿河灣の方から箱根山彙を越して吹いて來る西南の風は涼しいといふよりも寒いほどの雨氣を含んでゐた。殊に私の滯在してゐる海拔二千五百尺の蘆の湯のあるところは、すぐ浴舍の後に聳え立つ駒ヶ岳と双子山との峽になつてゐるので、蘆の湯から双子山の麓を巡つて元箱根の町のある方に降りてゆく一と筋の坦道、鶯坂といつて八月の半ばまで箱根竹の叢藪の中で一日鶯の鳴きしきつてゐる、坂のあるあたりは蘆の湖の水を含んだ冷い雨風が顏をも向けられないやうに強く吹いてゐた。湯疲れのした湯治客などが毎日の雨天に球突にも碁や將棋にも飽いて、浴衣のうへに貸し褞袍を重ねて番傘を翳しながら其處らを退屈さうにぶら/\歩いてゐたりするのを見掛けるが、彼等は少し歩くと詰らないので、すぐ引返へしてしまふ。そこになると日本人に比べて西洋人は男も女も實に感心するほど勇ましく活溌である。彼等は雨が降らうが何が降らうが第一着物がすつかり防水の用意が出來てゐるので雨天には雨天の身裝をして晴天と同じやうに一日も缺かさず運動をする。彼等は病人か何かでない限り温泉はなくとも多く蘆の湖畔に避暑してゐる。そして定つて毎日そこら中の山道を跋渉する、私が散歩してゐると毎日よく見る其ある二三人づれの婦人など、どれも縹緻は好くない女達であつたが、靴の上に草鞋を穿いて雨中の山道を歩いてゆくのであつた。どうかすると夜道を湖水まで歸つてゆくので懇意な店屋に寄つて、店頭から、
「提燈々々。」と呼ぶ。
 すると世辭のいゝ、そこの内儀や娘は尻輕に立ち上つて、
「奧樣、まあお遲くから。これからお歸りになるのは大變ですねえ。」
 などゝ言ひつゝ、手早く大きな文字で屋號を記した提燈を取つて蝋燭に火を點しながら渡すと、
「おゝ、大變々々。ありがたう。」
 などゝアクセントの違つた日本語を店頭に殘しておいて歸つてゆく。
 その時分からずつと九月の末まで五十日ばかりの間雨天の日の方が多かつた山の上でも、偶《たま》には清い初秋の風が習々と高原を吹いてゆくやうな美しい日に出會ふことがあつた。この模樣なら明日もまた雨であらうとおもつてゐて翌朝起きてみると陰晴定めない高い山の上は相模灘の方から朦々として湧き上つて來る白い水蒸氣に峯も溪も人家も埋つてしまひ、わづかに大空の眞中のところが少許り明るい日光を洩してゐるばかりである。さういふ日は山の上の天氣は今日は好晴であることが分る。
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