その水蒸氣の湧くのを見てゐるのも夏の高山生活の一興である。蘆の湯は箱根七湯の中でも最も高い位地にある。その爲め蘆の湖から吹き送る濕氣が多くていけないなどゝいふ者があるが、併しその相模灘から湧き上つてくる水煮氣が刻々千變萬化の奇趣妙景を盡しつゝやがて雲となり溪を埋め、峯を這ひ大空を蔽うてゆく有樣を見ようとすれば蘆の湯に足を逗めてゐなければならぬ。それは蘆の湯のある處が箱根山彙中の最も展望に都合の好い位地にあるからだ。蘆の湯から一里ばかり下の中腹にある小涌谷《こわくだに》や底倉、宮の下などは旅館も完備してゐて入湯するには何斯《なにか》が便利ではあるが散歩はいつも溪の底の單調な一と筋道に限られてゐる。そこから仰ぐ明星ヶ岳、明神岳の眞青な夏の姿も美しくないことはないが眼界は上の方に比べてひどく狹められてゐる。小涌谷まで登ると眺望は底倉あたりよりは遙に遠く展けてくる。けれども、蘆の湯附近の峯々の、相模灘の煙波を遠く眺めうる形勢の地勢に比ぶべくもない。國府津、大磯から江の島につづく津々浦々に打寄する波頭は丁度白銀の蛇の蜿れるごとく、靜に眸を澄すと三浦半島の長嘴は淡藍色の影を遠く雲煙漂渺の境に曳き、その尖端海に沒するところ、あるかなきかの青螺のごとく微に水に浮んで見えるのは三浦半島の城ヶ島である。
蘆の湯はちよつと其處らの小山に登つてもそんなに展望の利くところにあるから、どちらにゆくにも道は四方八方に通じてゐて窮るところがない。日に幾臺となく自動車の馳走する九十九折せる坦道を小涌谷の方へ降りてゆく順路に沿うて歩いてゆくと道の右方にあたつて舊東海道の通ずる古い大溪谷の眺望が深く抉つたやうに展望される。私はそこの緩い勾配をなしてゐる往還に櫻木の杖を曳きながら宛然大きな生物が口を開けたやうな溪谷を眺めるのが好きである。そこから見ると双子山が一入雄偉な容姿に見え上双子と下双子とが須雲川の深い溪谷にまで長く裾を曳いてゐるのも何となく壯大な感を起さしめる。好晴の日に相模灘から湧いて來る水蒸氣が、小田原口から早川の溪を眼がけて押寄せ、湯本から二派に分れて一團は早川の溪を埋め、明星ヶ岳、明神ヶ岳の峯を這ひつつ次第に西北に進んで宮城野の村を深い霧の底に沈め、金時山から足柄峠、長尾峠に向つて長驅する。私は、いつもそれを蘆の湯の笛塚山に登つて觀測する。そして一脈は、天氣の好い日であると須雲川の溪を埋めつゝ、舊東海道に沿うて車を進め、聖ヶ岳と鷹の巣山との中腹を掩ひ双子山の裾を這ひ、肩を隱し倍々《ます/\》奔騰して蘆の湯の空を渡り、駒ヶ岳神社に向つて突進する。それが雨後の濕つた天氣の日であると、白い雲霧は丁度深い水の底に澄んでゐる眞鯉の背の如き濃藍色をした聖ヶ岳の中腹を靜に搖曳してゐる。
夕陽が駒ヶ岳の彼方に沈んでゆく頃の山々の美しさといふ者はない。駒ヶ岳は灰白色の雲霧に隱れてしまつて、日頃の懷しい姿はどこにあるかさへ分らない。太陽も雲嵐の奧に影を沒して、たゞ僅に微薄の白光を洩してゐるので、あのあたりにゐるといふことを思ふばかりである。そして、ところどころ煙霧の稀薄になつたところに、まるで無數の金粉を播き散らしたやうな夕映えが水蒸氣となつて煙り、日の射さない處は凝乎と不動の姿勢でゐるかと思はれるやうな雲霧もその實非常な急速力で盛に渦卷きつつ奔騰をつづけてゐるのであることが分る。さうして稍※[#二の字点、1−2−22]暫く見詰めてゐるうちに、どうかすると深い雲霧の中から山の一角を微に顯はすことがある。この時の駒ヶ岳は平常好晴の日に仰ぐ駒ヶ岳とは全く違つた非常な神祕なものゝのやうに思はれることがある。
それに反して好く晴れた日の駒ヶ岳は清楚な感じがある。笛塚山または稍※[#二の字点、1−2−22]遠く離れて鷹巣山あたりから眺めると薄や刈萱などの夏草に掩はれた眞青な單色を遮ぎる一木もない、大きなヘルメットの如き圓い山の膚に丁度編靴の紐のやうな九十九折りせる山徑が裾から頂上まで通じてゐて、眞白い服裝を西洋人の男女がそこを登つてゆくのが小さく認められる。蘆の湯から頂上まで一里半。婦人や子供でも午前中に行つて來られる。少しの危險のない、優しい山である。そこに登ると展望は更に大きい。富士山は手に取るやうにすぐ西北の空に聳つてゐる。眼の下には蘆の湖の水が碧く湛へてゐる。が、駒ヶ岳は東に向いた方を小涌谷から登つて來る道から眺めたよりも、蘆の湯から双子山の裾をめぐつて蘆の湖の方におりてゆくその途上より仰ぐのが最も優れてゐる。丁度蘆の湖の東岸に沿うて長く裾を曳いてゐるその傾斜が今歩いてゐる往還のところまで緩い傾斜の一線を引いてゐる。好く晴れた日でも紗のやうな輕い浮雲を頂邊に着けてゐることがある。少し曇り勝ちの日だと直ぐ雲霧に被れて蘆の湖から湧き上る水蒸氣が丁度腰から肩のあたりを疾風
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