ら、
「わたし、もう、ここで失礼いたします」と、口の中でいって、上がろうとせぬ。
 主人も婆さんも、声をそろえて、
「何おいやす、姉さん。そんなとこにいられしまへん。さあさあ」と急いだ。
 女は、「へえ」と腰をこごめながら、それでやっと、「ほんならここからどうぞごめんやす」と沈み沈み言って、上り框に躙《にじ》り上がって、茶の間の板の間のところに小さくなって坐った。主人はそれを咎《とが》めるように、
「姉さん寒いのに、そんなとこにおられしまへんたら、さあこちらへおいでやして、兄さんの傍に来て火鉢におあたりやす」と手を取らんばかりに世話を焼いた。
 女は幾たびもいくたびも催促せられて、まだ泣きじゃくりをしながら、ようよう座蒲団の上まで寄ってきた。
 主人は、合壁の隣りに居残っている母親に気を兼ねて、声をひそめ、二人の仲を改めて取りなすような口を利《き》いて、
「さあ、姉さん、ここは私の内どす。もう誰に遠慮もいりまへんよって、兄さんと心置きのう話したい思うておいでやしたことをお話しやす」
 そういったが、彼女は、何といわれても、ただ「へえ、へえ」と、低い声でいうのみで、憂わしそうに湿っている
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