聞えるように、潜戸をどんどん打ち叩いて、
「今晩は今晩は今晩は今晩は」とやけに呼んだ。
 すると、家《うち》の中でも黙っているわけにゆかず母親はまた硝子戸を開けて顔を出して、少し先《せん》よりも低い声で、
「何か用どすか」という。
「何か用どすかもないもんだ。用があるから呼んでいるのです。話があるからここを開けて下さい」
「開けられまへん。ここは私の家と違います」
「ああ、もう、そんないつまでも白ばくれたことをいいなさんな。幾ら口から出まかせをいって、人を騙《だま》そうとしても、こちらが正直なもんだから、一応は騙されているが、騙されたと知っただけよけい腹が立つ。私を一体何と思っているんだ。お前さんたちに、いつまでもいいようにされている子供じゃないんだぞ。東京でもうさんざっぱら塩を嘗《な》めて来ている私だ。今までここの女に焦《こが》れていればこそ馬鹿にされ放題馬鹿になっていたが、こう見えても丹波や丹後の山の中から出て来た人間とは人が違うんだ」私は、自分ながら少し下品だと思ったが真暗な夜のことではあり、人の往来もない、深く入り込んだ路次の中とて、母子《おやこ》に聴かすよりも、もし男でも来て
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