たい、どんなことを話しているであろう? と冷たい黒闇《くらやみ》の夜気の中にしばらくじっと佇《たたず》んでいても、家《うち》の中からは、ことりの音もせぬ。そっと例の硝子戸に触《さわ》ってみるけれど、重い硝子戸は容易に動かない。誰もいない留守なのかと思っていると、いるにはいると思われて、畳の上を人の歩く足音がする。それが母親であったら勝手が悪いと思ったが、試みに、誰とも分らないほどに低い声で、
「今晩は今晩は。……ご免なさいご免なさい」
と声をかけてみると、すっと内から硝子戸が一尺ばかり開いてそっと、白い顔を出したのは、中の電燈を後に背負って、闇《くら》がりではあるが、たしかに彼女である。そして、眼で外の闇の中を探るようにしている。
「お園さん」
と、私は思わず※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓に寄り添うようにして力の籠った低声《こごえ》で呼びかけながら手に物を言わせて、おいでおいでをして見せると、彼女は、声の正体が分ったので、そのまま黙って、急いで硝子戸を閉めてしまった。どうすることも出来ない私はちょうど猿《さる》が樹から落ちたような心持になった。向うで幾らかその気があるな
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