長火鉢によりかかりながら彼女が独りきりでいつかの絽刺しをしているのが見える。そして身体が三分の一ばかり手前の襖に隠れているので、その蔭に母親もいるのか分らない。とにかく静かで、ただ絽刺しの針を運ぶ指先が動いているだけである。こちらが窓に伸び上っている物音でも聞えたら、ついと振り向きそうであるが、それも聞えぬのか、まるで石像のように静かにしている。ついでに内の中の様子を見ると、この間は気がつかなかったが、すぐ取付きの表の間には壁の隅《すみ》に二枚折りの銀屏風《ぎんびょうぶ》を立て、上り口に向いたところにはまた金地の衝立《ついたて》などを置いてある。
「あんな、いろんな家具などを買い込んでいる」と、それに何となく嫉妬《しっと》を感じながら、心|急《せ》き急《せ》きなおよく見ると、内は三間と思われて茶の間のも一つ奥が一枚襖を開いたところから、そちらは明るく見えている。そしてそこに寝床を敷いてあるのが半分ほど見えている。私は神経が凝結したようになってそちらを、なおじっと見ると、木賊色《とくさいろ》の木綿ではあるが、ふかふかと綿の入った敷蒲団を二、三枚も重ねて敷き、そのうえに襟のところに真白い布を当てた同じ色の厚い掛蒲団を二枚重ねて、それをまん中からはね返して、もう寝さえすればよいようにしてある。そちらの座敷が明るいので、よく見える。私はもう身体中の血が沸き返るようである。
「旦那《だんな》が来ているのだろうか?」と、小頸《こくび》を傾けてみた。
旦那らしい者があると思って見るさえ、何とも言えない不快な気持がするが、いかに欲目でそんなものはないと思おうとしても家《うち》の中の様子では、それがあることは確かである。はたして自分の他にまだそんな者があって、今その世話でこうなっているとすれば、どう、自分の身びいきという立場を離れて考えても不埒《ふらち》である。たとい売女《ばいた》にしても、容易にそんなことが出来るわけのものではない。しかしそれは彼女の自分の意思でそうなったものか? 本人の心底をよく訊《き》いてみなければならぬが、二、三日前の夜ちょっと顔を覗《のぞ》けた時、すげなく硝子戸を閉めたことと言い、そののちこうして硝子戸を開かなくしたことなどを思い合わしても女には私のことにぷっつり気がなくなってしまったのではなかろうか? 何とかしてこちらの懊悩《やきやき》している胸の中を立ち割ったようにして見せたいものだ。母親の言った詐《つく》りごとを真に受けて、あの十二月の初め寒い日に、山科《やましな》の在所《ざいしょ》という在所を、一日重い土産物《みやげもの》などを両手にさげて探し廻ったこと、それから去年の暮のしかも二十九日に押し迫って、それも母親のいう通りを信じて、わざわざ汽車に乗って、南山城《みなみやましろ》の山の中に入って行こうとしたこと、また京都中を探し歩いたこと、そんな心労を数え立てていう段になったら幾らいっても尽きない。……女は硝子戸一枚隔てたすぐ眼の前にいながら、この心の中を通ずる術《すべ》もない。
私は※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子格子からやっと手を放して地におり立ちながら、「旦那が来ているので、ああして寝床までちゃんと用意してあるのだろうか。それとも自分の寝床かしらん?」
そんな者が来ているなら、ああして自分独り黙って絽刺しをさしているはずもない、すると、あれは、これから自分の寝る床であろうか。どうかして旦那が来ているところを突き留めたい。それが、どんな人間であっても自分はそれに遠慮して手を引くのではない。自分より以上深い関係の人間がほかにあろうとは思えない。……
そうして心の中は瞋恚《しんい》の焔《ほのお》に燃えたり、また堪えがたい失望のどん底に沈んでしまったような心持になったりしながらもまたふと思い返してみると、女は長い間の苦界《くがい》から今ようやく脱け出《い》でて、ああして静かに落ち着こうとしているところである。それを無惨に突き崩《くず》そうとするのはみじめのようでもある。そうかと思うと、また自分という者を振り返ってみると、どうであろう。この真冬の夜半に寒風に身を曝《さら》して女の家の窓の下に佇みながら家へ入って行くこともならぬ。しかもこちらは彼女のために、長い間ほとんど自分のすべての欲求を犠牲にして出来る限りのことを仕尽して来ているのではないか。ああして温々《ぬくぬく》とした寝床などをしているのに、自分はどうかといえば、これから宿に帰って冷たい夜具の中に入って寂しく寝なければならぬのである。すると、またどう考えても道理に合わない母子《おやこ》の勝手至極を憤らずにはいられない。
「よし。どうあっても、これはこのままには棄てておかないぞ」と思ったが、あまりに心が疲労しているので、その晩はそのまま悄然《しょ
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