うぜん》として宿に戻った。
二
でも、どうかして女だけにこちらの心を通じたい。乱暴なことをして、女の心が、もし、自分から離れていなかったとしたならば、そのためにかえって、自分を遠ざかってゆくようなことがあってはならぬと思い、胸はいろんな思いで一杯になりながらやっぱり思いきったことをし得ないでいたが、もうそうしているのにたまらなくなって、二、三日過ぎた晩同じように窓の下に立ってみたが、相変らず静寂《しん》としている。男が来ているかいないか分らないが、来ていれば、こうすれば聞くであろう。その女には、こんな者がついているぞと思わせようと思って、潜戸《くぐり》のところに寄って、臆《おく》せず、二つ三つ、
「今晩は!」と高い声をかけた。
すると、
「どなたはんどす?」といいながら、母親が硝子戸を開けて顔を出した。
「今晩は。私です」
「ああ、あんたはんどすか。あんたはんには、もう用はない」と、いって、そのままぴしゃりと硝子戸を閉めてしまった。
そうなると、もう、耐《こら》えにこらえぬいている憤怒がかっと込み上げて抑えることが出来ない。私は、わざと夜遅く近処|合壁《がっぺき》に聞えるように、潜戸をどんどん打ち叩いて、
「今晩は今晩は今晩は今晩は」とやけに呼んだ。
すると、家《うち》の中でも黙っているわけにゆかず母親はまた硝子戸を開けて顔を出して、少し先《せん》よりも低い声で、
「何か用どすか」という。
「何か用どすかもないもんだ。用があるから呼んでいるのです。話があるからここを開けて下さい」
「開けられまへん。ここは私の家と違います」
「ああ、もう、そんないつまでも白ばくれたことをいいなさんな。幾ら口から出まかせをいって、人を騙《だま》そうとしても、こちらが正直なもんだから、一応は騙されているが、騙されたと知っただけよけい腹が立つ。私を一体何と思っているんだ。お前さんたちに、いつまでもいいようにされている子供じゃないんだぞ。東京でもうさんざっぱら塩を嘗《な》めて来ている私だ。今までここの女に焦《こが》れていればこそ馬鹿にされ放題馬鹿になっていたが、こう見えても丹波や丹後の山の中から出て来た人間とは人が違うんだ」私は、自分ながら少し下品だと思ったが真暗な夜のことではあり、人の往来もない、深く入り込んだ路次の中とて、母子《おやこ》に聴かすよりも、もし男でも来ていたら、それに聴かすつもりで、そんなことを癇《かん》高い調子でいい続けた。そしてもし、男が来合わせているならそこへ顔を出せばちょうどいいと思った。
すると、母親は、いつもに似ず私の剣幕が凄《すさ》まじいのと、近処隣りへ気を兼ねるので、いつもの不貞腐《ふてくさ》れをいい得ないで、私をそっと宥《なだ》めるように、
「まあ、あんたはんもそんな大きい声をせんとおいとくれやす。あんたはんも身分のある方やおへんか。あんたはんの心は私にもようわかってますよって、あの娘《こ》が病気が好うなったらまた会わせます」
「病気が好くなったら会わせますって、もう好くなっているじゃありませんか」私も少し声を低くした。「私が、どんなに、あなた方二人の身のことを長い間思って上げているか、――決して恩に被《き》せるのではないが――そのことを少し思ってみたなら、たとい今までのような商売をしていた者でも、私に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]が吐《つ》かれるはずがない。……いや山科のお百姓の家《うち》に出養生をさしているの、いや南山城の親類が引き取ったのといって、みんな真赤な※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]じゃありませんか。あなたはよく金神様《こんじんさま》を信心しているが、何を信心しているのです」私の言葉はだんだん優しい怨《うら》み言《ごと》になって来た。
母親がそれについて何かいおうとするのを、押《お》っ被《かぶ》せるようにして言い捲《まく》った。
「ええ、ようわかってますよって、今夜はもう遅うおすさかい、また出直して来ておくれやす。あんたはんの気の済むようにお話しますよって」
「ああ、そうですか。それじゃまた近いうちに来ますからこんど、また、もう話すことはないなどと言っては承知しませんよ」そういって、私は、おとなしく振り返って帰ろうとすると、母親は、そういった口の下から、すぐ、
「勝手にせい。今度来たら寄せつけへん」と、棄てぜりふを、私の背後《うしろ》に浴びせかけながら、ぴしゃりと硝子戸を閉めた。
私は、「そらまた、あのとおりの悪たれ婆《ばばあ》だから始末にいけない」と心の中で慨歎《がいたん》しながら、後戻りをして、も一度戸を叩いて、近所へ恥かしい思いをさしてやろうかと思ったが、いつものとおり失望と悲憤との余り息切れがするまで精神が消耗しているので、そっと胸
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