さ》しをしていたところと見えて、右手にそれを持っている。私は窓の横から窺《のぞ》きながら、
「お園さん」と低い調子で深い心の籠った声をかけた。
と、そこへ、その物音を聴《き》きつけて、次の間から母親が襖《ふすま》をあけて出て来て、
「なんで、そない端のところに出ているのや、早うこっちお入りんか。そなところにいるからや」と、ひそひそ小言をいいながら、力なげに起《た》ち上った彼女の背後《うしろ》に手を添えて奥の間の方へ推し隠してしまった。そして硝子戸を今度はぴっしゃり閉めてしまった。せっかく好いあんばいに顔を見ることが出来たのに、一と口も口を利《き》く間もなかった。
けれども、長い間恋い焦《こが》れて、たった一と目でもいいから見たい見たいと思っていた女の顔を見ることができたので、ちょうど、長い間|冬威《とうい》にうら枯れていた灰色の草原に緑の春草が芽ぐんだように一点の潤いが私の胸に蘇《よみがえ》ってきた。病後の血色こそ好くないが、腫《むく》んだように円々と肥って、にっとこちらを見て笑っていた容姿《すがた》には、決して心から私という者を厭《いと》うてはいないらしい毒気のないところが表われていた。ああして小綺麗なメリンス友禅の掛蒲団の置炬燵にあたりながら絽刺しをしていた容姿《すがた》が、明瞭《はっきり》と眼の底にこびりついて、いつまでも離れない。それにしても、あれは、何人が、ああさしておくのであろう? よもや背後《うしろ》に誰もついていないで、気楽そうにああしていられるはずがない。
そんなことを思うと、身を煎《い》られるような悩ましさに胸の動悸が躍って、ほとんどいても起《た》ってもいられないほど女のことが思われる。
そして、もう悪性の流行感冒に罹《かか》っても構わない、もし、そんなことにでもなったら、かえって身を棄《す》て鉢《ばち》に思いきったことが出来る、生半《なまなか》に身を厭えばこそ心が後れるのだ、誰か男が背後《うしろ》についているにちがいないとすれば大抵夜の八時九時時分には女の家に来ているであろうと、そのころを見計らって、ほとんど毎夜のように上京《かみぎょう》の方から遠い道を電車に乗って出て来ては路次の中に忍んで、女の※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》の窓の下にそっと立っていた。そして、家の中から男の話し声が洩れはせぬか、その男の声が聴きたい、どんなことを話しているであろう? と冷たい黒闇《くらやみ》の夜気の中にしばらくじっと佇《たたず》んでいても、家《うち》の中からは、ことりの音もせぬ。そっと例の硝子戸に触《さわ》ってみるけれど、重い硝子戸は容易に動かない。誰もいない留守なのかと思っていると、いるにはいると思われて、畳の上を人の歩く足音がする。それが母親であったら勝手が悪いと思ったが、試みに、誰とも分らないほどに低い声で、
「今晩は今晩は。……ご免なさいご免なさい」
と声をかけてみると、すっと内から硝子戸が一尺ばかり開いてそっと、白い顔を出したのは、中の電燈を後に背負って、闇《くら》がりではあるが、たしかに彼女である。そして、眼で外の闇の中を探るようにしている。
「お園さん」
と、私は思わず※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓に寄り添うようにして力の籠った低声《こごえ》で呼びかけながら手に物を言わせて、おいでおいでをして見せると、彼女は、声の正体が分ったので、そのまま黙って、急いで硝子戸を閉めてしまった。どうすることも出来ない私はちょうど猿《さる》が樹から落ちたような心持になった。向うで幾らかその気があるなら、何とか合図くらいのことはしてくれそうなものであるのに、少しもそんな様子のなかったのは、すっかり心が離れてしまっているからである。そう思うともう心に勢いが脱《ぬ》けて、その上つづけて寒い闇の中に佇んでいる力がなくなり、落胆と悲憤とに呼吸《いき》も絶え絶えになりそうな胸をそっと掻《か》き抱《いだ》きながら空《むな》しく引き返して戻《もど》ってくるのであった。
それ以来硝子戸を固く釘付《くぎづ》けにでもしたと思われて、夜の闇にまぎれて幾ら押してみても引いてみても開かなくなってしまった。相変らず出かけていって窓の下に佇んで家の中の物音に身体《からだ》中の神経を集めて耳を澄ましても母子《おやこ》の者の話す声さえせぬ。何とか家の中を窺いて見る方法はないかと思って、硝子戸を仰いで見ると、下の方は磨《みが》き硝子になっているが上の方は普通の硝子になっているので、路次の中に闇にまぎれて、人の通るのを恐る恐るそこらに足を踏み掛けてそっと※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子格子に取りついて身を伸び上って内を窺くと、表の四畳半と中の茶の間と両用の小さい電燈を茶の間の方に引っ張っていって、その下の
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