主人も私の言葉につれて、
「姉さん、そんなこともう、今いわんとおきやす。いつでも後になって、あんたはんたち二人でまた笑ってそんなことは話せますよって」と抑えるようにいって、
「……さあ、もうあんまり長うなると、お母はんがまた喧しゅういわはりますさかい……姉さんほんならよろしいなあ、どうぞ今夜の約束はこのお方でのうて私に対して違《たが》えんようにしておくれやす」
と主人は重ね重ね念を押していった。そして私に向って、
「兄さん、あんたはんも、もういうことおへんか……ほんならもう、どっちも異存おへんなあ」と、言いきって、また気を変えて、
「さあ、姉さんえらい御苦労さんどした。どうぞ帰ってお寝《やす》みやしとくれやす。遅うまで済みまへん」
 彼女はそれをしおにようよう立ち上がって、礼をいいつつ、壁隣りの自分の家に帰った。

     七

 まだ二月半ばの厳《きび》しい寒威は残っていても、さすがに祇園町まで来てみると明麗な灯の色にも、絶ゆる間もない人の往来にも、何となくもう春が近づいて来たようで、ことに東京と異《ちが》って、京は冬でも風がなくって静かなせいか夜気の肌触《はだざわ》りは身を切るように冷たくっても、ほの白く露霜を置いた、しっとりとした夜であった。私は、その女の勤めていた先の女主人《おんなあるじ》に会うために、上京《かみぎょう》の方から十一時過ぎになって、花見小路《はなみこうじ》のその家に出かけて往った。
 もう去年の十一月の末、女がそんなことになった時から、直接に女主人にぜひ一度会って、彼女の勤めていた時分のことから病気で引いた前後の事情を、自分の得心するように委《くわ》しく訊いてみたいと思っていたのであった。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を商売とするその社会の者の習いで、こちらが客として今まで外部から知ることの出来なかった裏面の真相を、はたしてどれだけの誠意を披瀝《ひれき》して聴かしてくれるものか、それと知りつつ、わざわざ笑われるために行くのも阿呆《あほ》らしいようで控えていたが、それでも、いつまでも女のいるところが知れなくって懊悩に懊悩を重ねていた時分には、もう思案に余って愚かになり、女の在所《ありか》を探し出すことが出来なければ、せめて彼女の話でも、誰かを対手にしていたい、それには先の主人に会っていろいろな話を訊いたならばあるいは手が
前へ 次へ
全50ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング